1. HOME
  2. World Now
  3. 「音楽で食える」を証明する 逆算して生きるピアニストの向かう先

「音楽で食える」を証明する 逆算して生きるピアニストの向かう先

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
クラシック業界の未来をいつも考えている。「先へ先へと仕掛けていきたい」=2026年3月、東京都港区、関口聡撮影

髪を一つに結わえた「サムライヘア」のクラシック音楽家。ショパンコンクールでの鮮烈なデビューから5年。その人は逆算して、一歩一歩人生を歩み進めている。周到に、かつ大胆に。ピアニストという枠を超えて、視野の先にあるのは、どんな未来なのか。

白鍵を軽くたたくと、反田恭平は笑いながら言った。「最近、ピアノ弾いていないなあ」

本当かはともかく、反田がもはや、ピアニストという肩書に収まらないのは確かだ。音楽家4人が所属する音楽事務所の経営者。さらに、オーケストラをつくり、日本で初めて株式会社化した。最近では、ピアノを弾きながら指揮をする「弾き振り」もしている。

一躍知られる存在になったのは5年前のことだ。日本人としては51年ぶりのショパン国際ピアノコンクール第2位。その豊かな音楽性への称賛だけではなく、髪を一つに結んだ「サムライヘア」のクラシック音楽家は、鮮烈な印象を与えた。まさに、本人の狙い通りだった。

コンクール直後、熱気さめやらぬなかで、反田はこう語っている。

「将来、日本で学校をつくりたい。そこから逆算して人生を歩んでいて、学校を設立するには、まずオーケストラをつくらないといけない」。このときすでに、ピアニストの先の未来を見すえていた。

反田恭平さん=2026年3月、東京都港区、関口聡撮影

全身に迫った「音の圧」

反田は会社員の父と専業主婦の母のもとに札幌で生まれた。転勤が多く、小学校まで名古屋や東京などを転々とした。3歳のとき、社宅のポストに入ったチラシがきっかけで、近所の音楽教室に通い始める。だが、小学校時代には、ピアノよりサッカーに夢中だった。

12歳のとき、人生が変わる経験をした。夏の間、子どもがオーケストラの指揮を学べる機会があり、初めて指揮台に立ったのだ。一振りすると、客席で聴くのとはまったく違う「音の圧」が全身に迫った。指揮者になろうと決めた瞬間だった。だが先生は、「それなら、まずは一つ楽器を極めなさい」。ピアノに打ち込むようになったのは、あくまで指揮者になるためのステップだった。

中学生になると、音で自己表現する面白さを知るようになる。「楽しい音や悲しい音といった表現ができるようになり、音を実験し始めた時期でした」

他人に縛られず、好きなことをとことん突き詰める。そんな反田の性格は、この頃にはでき上がっていた。高校からは音楽の道へ進もうと、心を決めた。

だが、音楽に関心のない父は、音楽科への進学に大反対して言った。「まずコンクールで1位をとってこい」。中学2年生のときコンクールをいくつも受け、全て1位を獲得。ようやく受験が許された。

インタビューに応じる反田恭平さん=2026年3月、東京都港区、関口聡撮影

反田は幼い頃から、どうやって食べていくか、具体的に思い描く子どもだった。それだけに、コンクールでもらった賞金3万円は、音楽を通じて自分で得たお金として、記憶に刻まれた。

高校でも自分流を貫いた。通学は金髪にサングラス、ビーチサンダル。先生からスーツを着たら、とやんわり注意されると、銀色のスーツで登校し、余計に悪目立ちした。

一方で、ピアノではめきめきと頭角を現した。高校3年生のとき、音楽家の登竜門と言われる日本音楽コンクールで、男性としては史上最年少(当時)で1位に。これがきっかけで、ロシアの音楽大学で学ばないかと声がかかり、19歳で国立モスクワ音楽院へと羽ばたいた。

だが、初めての留学は想像外の環境だった。ピアノはぼろぼろで、寮はすきま風が吹き込み、断水はしょっちゅうだ。冬でもお湯が止まると水のシャワーしかない。ロシア語もできず、お金もほとんどない。到着直後は食べ物にすらありつけず、偶然会った日本人に水とひまわりの種を分けてもらってしのいだ。

ロシア語を学びつつ、著名なピアニストに師事した。ときどき帰国してはコンサートを開いて学費を稼ぐ。そんな生活を3年半続けた。音楽家として学んだことは大きかったが、日本との往復で出席日数が足りなくなりそうになったり、お金の必要ばかりに迫られて演奏する生活に、疑問を感じるようになる。同時に、幼い頃から憧れていたショパンコンクールに挑戦してみたいという気持ちがわいてきた。

「本当にショパンの曲?」

コンクールは5年に1度しかない。年齢制限もあり、挑戦できる時期は限られる。ポーランドのワルシャワ音楽院の先生にSNSで連絡を取って、演奏のビデオを送ると、返事が来た。「とりあえず来てみなさい」

ロシアを離れ、ワルシャワでコンクールに向けて学ぶ日々が始まった。先生の助言は、ただ「美しく弾け」。ショパンが暮らした町を歩き、その歴史を学ぶうち、次第にその言葉の意味が見えてきた。

ショパンが生きた19世紀、ポーランドは長いロシア帝国の支配に対して武装蜂起が起きるなど激動の時代だった。そんな時期に、ショパンは情熱、哀愁、孤独といった、あふれる情感を約250の曲にして残した。「美しさにも、いろいろな形態がある。はかない美しさ、華麗な美しさ……。それをどう表現するかだということが、いまになるとわかるんです」

反田恭平さんの手=2026年3月、東京都港区、関口聡撮影

ショパンコンクールはショパンの曲だけを弾くコンクールだ。プログラムの組み立ても腕の見せどころになる。反田は過去2回に参加者約800人が弾いた曲を「正」の字を書いて数えてみた。すると、のべ約4000回の演奏のうち、ほとんど弾かれたことのない曲もあった。「高齢の審査員は、何時間も硬い椅子に座って、同じ曲を何度も聞かされる。サプライズがないと」。プログラムを練り上げ、演奏されたことのない曲も入れて提出すると、事務局から「これは本当にショパンの曲か」と問い合わせがきた。

2週間以上にわたるコンクールでは、重圧に耐えかねて途中で帰国する人もいる。反田も第1次予選の直後、前日まですらすら弾けていた曲が突然弾けなくなった。何を信じたらいいのかわからず、まともな精神状態が保てない。「ここまで練習したのだから、1日弾かなくても変わらないだろう」。そう思い切って、1日ゲームをしたり配信ドラマを見たりして過ごした。そのうち、もう一度弾きたいという気持ちが戻ってきた。

コンクールでの2位入賞の後、生活は激変した。1週間に3日は取材を受ける日々。ワルシャワに戻ると「もうあなたを教える人はいない」と言われた。3位以上を獲得した経験のある人が、教授陣にいなかったからだ。

クラシック業界を変える

反田の歩みは、新しい演奏家像の模索でもある。そして、クラシック業界を変えたいという思いはずっと変わらない。「他の業界が当たり前に使っているテクノロジーをもっと使わないと」。新型コロナが広がったときには、いち早くオンライン配信を企画。当初は、無観客でも複数の演奏家が出演するという発表に「感染を広げるのか」と批判も受けた。だが数日で2000人がチケットを購入。その後、配信イベントはさまざまな業界に広がっていった。

いま、視野の先にあるのは、日本に音楽学校をつくるという長年の目標だ。世界で活躍する音楽家を集め、演奏の実践的なノウハウを教える。世界の舞台を知る人しか得られない経験値を若い世代に伝えたいという。「音楽でちゃんと食えるんだと示したい。そうすれば、この道を目指す人も増えるはず」

ピアニストとしての反田は、これからどこへ向かうのか。そう聞くと、笑いながらさらりと言った。

「日々成長していると思う。ショパンコンクールの時より、いまのほうがずっとうまいしね」(文中敬称略)