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「戦場のピアニスト」が語った飢えと死、そして希望

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 シリアの街角で戦火の中ピアノを引き続け、「戦場のピアニスト」として知られるようになったエイハム・アハマドさん(29)が初来日し、14・15両日、都内で開かれたシンポジウムや演奏会に参加した。演奏の様子と、アハマドさんが会場やインタビューで述べた思いを報告する。

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キャンプは封鎖された

アハマドさんは、シリアの首都ダマスカス近郊にあるパレスチナ難民キャンプ、ヤルムークで生まれ育った。パレスチナのサファド(現イスラエル・ツファット)に住んでいた祖父がイスラエルの建国とともに土地を追われ、シリアにたどり着いたのだ。アハマドさんはバイオリンを弾き、楽器の制作や修理も手がける父の元に生まれ、幼い頃から音楽に親しんだ。音楽学校でピアノを学び、将来は学校の先生となり子どもたちに音楽を教えたいと思っていた。


だが、2011年、内戦が勃発。ヤルムークキャンプは中立の立場だったが、途中で反体制派の戦闘員が入り込んできた。アサド政権は、12年末からキャンプを封鎖。次第に食料や水など、生きていくのに必要なものが足りなくなっていった。そんななか、アハマドさんは、少しでも人々に希望を与えようと荷台にピアノを載せ、キャンプの路上で自作の曲を弾き始めた。

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食べられる草を探した

15日の公演で、アハマドさんは、激しく指が鍵盤の上を動き回り、悲しげな曲を演奏し始めた。「おさげ頭の女の子」という曲だ。

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「♪おさげ頭の女の子 路上で苦痛の物語を伝える 何度も何度も (中略)涙を流してはいけない 生き抜くんだ 心たちは石と化し いや鉄よりも硬くなった だからそのやせこけた脚を使い たち続けるのだ」(日本語訳)

歌詞はキャンプに住む友人のアンマル・ヒジュワさんがアラビア語で書いた。教養があり詩を書いたりするのが得意だったが、封鎖が始まると、ピアノを奏でるアハマドさんを「こんな時に何で音楽なんかやっているんだ」ととがめるようになった。連れられヒジュワさんの家を訪ねると、食べるものがなかったのだろう、鍋の中にはたくさんの猫の頭蓋骨があった。だが、頼み込むと、彼はこの歌詞を書いてくれた。

アハマドさん家族も飢えに苦しんだ。妻は封鎖下、野戦病院のようなところで帝王切開で2人目の息子を出産。2人の幼子を抱え、生き延びるために知恵を絞った。食べられる草を探して何時間もかけて集め、計画的に小分けにした米とともに調理し、分け合って食べた。食事は1日1回。日本にいる今も「胃が小さくなってしまい、午後3時にならないと受け付けない」とインタビュー中、悲しそうに答えた。

あの人も、撃たれて亡くなった

次に、楽しげにスキップをしているかのような曲を弾き始めた。「UNRWAの箱」という題名の曲だ。

「♪UNRWAの箱 油に砂糖にミルク これらが入った箱 真夜中に我々は箱を待つ 歩道で眠りにつきながら 我々はその先の路上で箱を頻繁に見かける 行ったり来たり それが我々の現在の仕事・・・」

UNRWAとは、ヤルムークキャンプで支援活動を展開していた国連の機関のことだ。この曲を書いた父の友人も、大学で教えるような教養人だったが空腹のために食べ物のことしか考えられなくなったという。この歌詞をアハマドさんに託した数日後、食料配給の箱を取りに行った帰り、狙撃手に撃たれて亡くなった。「この歌を歌うたびに、ヒシャムおじさんのことを思い出します」

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楽しげな曲ではアハマドさんは聴衆に参加を促し、一緒に手をたたき、笑顔で声を張り上げた。時折ジョークも交え、聴衆を楽しませようとした。だが、最後の曲を弾き終えると、涙を抑えきれず、顔を覆った。立ち見を含めて250人以上の聴衆からは、惜しみない拍手が送られ、総立ちに。アンコールでアハマドさんは、路上で子どもたちが最もよく歌っていた曲、「ヤルムークは寂しがっている」を奏でた。

実は14年、路上で8人ほどの子どもたちとこの曲を歌っていたとき、1発の銃弾が少女たちの一人、ザイナブちゃんを貫いた。慌てて介抱し、病院に運んだが、即死だった。この事件の後、アハマドさんはしばらくピアノに触ることができなくなった。それでも再び弾き始めたのは、「音楽だけが希望」であり「音楽は空腹を忘れ、心を生かしてくれる」からだった。それは、自身の近くで手榴弾が炸裂し、右手の指や顔にけがをした後も、同じだった。アハマドさんは、15年に過激派組織イスラム国の検問所でピアノを燃やされるまで演奏を続け、それを機にドイツに逃れた。

そこに生きる「市民」の存在を知って欲しい

今も父と母はダマスカス近郊に住み、26歳になるただ一人の弟は、13年にアサド政権に拘束され、いまだ刑務所に入れられている。折りしも、米軍によるシリア攻撃が報道されるなか、アハマドさんは何度も「政府と市民を一緒に考えないで」と訴えた。「ロシア、米国、トルコ、サウジ・・・、数々な国が介入し、お金のために、シリアで兵器が使われている。シリアの人たちは、ただなすすべがない。でもどの国も、市民はあなた方と変わりない。市民はただ、自分の意見が言える自由が欲しいだけなんです」。

「私はこうやってきれいなピアノで、ライトを浴びながら演奏することに罪悪感を覚えている。シリアにとどまり、家族とともにいるべきだった」とも苦しそうに語ったアハマドさん。だがドイツに行き、難民に批判的視線を向ける人もいるなか、ピアノを通して難民の立場を知ってもらうことが自分の役割と思うようになった。そして、「私はピアノを弾くことで、シリアにいる弟を励まし、友人を、自分を励ましている」と語った。

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その思いは、アハマドさんを招いた学生らの団体「スタンド・ウィズ・シリア・ジャパン(SSJ)」の思いと重なった。発起人で東大大学院生山田一竹さん(24)は15年、アハマドさんが演奏する動画を見て衝撃を受け、インターネットで連絡をした。まだドイツに着いたばかりで難民認定もおりる前。「この日本人はクレイジーだと思ったよ」と笑うアハマドさんだが、山田さんはその後、団体を立ち上げ、クラウドファンディングで資金を募り、開催にこぎ着けた。「できることはわずかかもしれないけれど、シリアの人たちに希望を届けたい。日本に暮らす私たちは、シリアを見捨てていないと伝えたい」

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記者は16年、大学3年生で留学から帰国後の山田さんを取材していた。山田さんは英国で紛争解決学を学び、難民支援団体でインターンを経験。シリアなどから逃れてきた難民の子どもたちに英語を教えるなか、船が転覆して父親を亡くした少女や、同世代の大学生らと知り合い、遠い国の話が、ひとごとではなくなっていた。帰国後、シリアで民主化運動のために立ち上がった青年たちを追ったドキュメンタリー映画の無料上映会を思い立ち、大学で開催。その頃から、「アハマドさんを日本に呼びたい」との気持ちを強めていった。イベントの当日は、これまでのことが思い出され、会場で何度も、涙をぬぐった。

15日、ツイッターにはこんなコメントが流れていた。「エイハム・アハマド氏演奏会@東大。素晴らしかった。音楽を聴いてここまでダイレクトに感情を揺り動かされた経験は何年ぶりだろう。演奏中はすすり泣きの鼻水の音、そして演奏後はスタンティング・オベーションとザガーリード(*)に包まれる会場」
*アラブの女性が舌を小刻みに振るわせて発する甲高い歓声
山田さんは言う。「私たちの活動はアハマドさんの来日で終わりじゃない。これからも、シリアの人々に寄り添い、出来ることを探していきたい」