コムアイさんが感じる地球環境の危機 「ひとりひとりができることを」より大切な視点
最近、夏がとても暑くなり、台風や豪雨が明らかに増えています。こんな日常生活で感じていることをもっと理解したいと、コロナ禍のころ、「350.org Japan」というNGOが主催する気候変動についてのオンライン講座に参加しました。
講座の中で、例えば熱波、森林火災、氷床の融解、サンゴ礁の白化などの現象が影響を及ぼし合うことで、加速度的に気温上昇が始まり、二酸化炭素(CO₂)の排出を減らす努力をしても手に負えなくなる「ティッピングポイント」(臨界点)に、今まさにさしかかっていると知り、いよいよ危機感を持ちました。
気候変動を放置することは、「時間差殺人」だと思います。自分たちの行動によって気候変動の被害が起きて、今は暮らせていても、将来の世代が食糧難などの問題に直面し、生きていけない地球になってしまう可能性が高いという意味です。
私個人が楽しんで取り組んでいることもあります。たとえば最近、ミミズコンポスト(生ごみを食べたミミズのふんから堆肥を作ること)も始めました。生ごみは水分が多いので、燃やすとごみ焼却炉の効率が悪くなってより多くのエネルギーを必要とするCO₂の排出量が増えると聞いて。ミミズの数が少なくてまだ全然、ごみを処理してくれるゴミの量はちっぽけなのですができていませんが。本当は生ゴミと燃えるゴミを分別した方がいいのでしょうね。
ただ、こういうひとりひとりがもっと質素に家でできることをやりましょう、というようなナラティブ(語り口)は危険でもある、と思っています。
家庭部門の排出量よりも産業部門の方がよほど大きいからです。問題のおおもとは、政府が化石燃料から自然環境を壊さない再生可能エネルギーにシフトすることができていないことで、そのためにアクションを起こすことの重要性もセットで語られるべきだしていかなくてはいけないと思うんです。
気候正義訴訟は、まさにその一つですよね。誰でも原告になれるのが斬新だなと思いました。
身近な被害として、夏場に熱中症になったとか屋外での仕事や授業ができなくなったとか、運動会や地域のお祭りが縮小されたとか、エアコンがフル稼働で電気代がかさんでいるとか、みなさん感じていると思うんです。そんな国民の生活が危ぶまれています、ということを国を相手取って訴えるということですよね。日本はCO₂の排出量で世界5位の国ですから、地球規模の気候危機に責任があります。
2年半前にペルーのワンピスという先住民の村で出産させてもらいました。森が近く、伝統的なお産の知恵が受け継がれている場所で出産したいと考えたとき、パートナー(人類学者で映像作家の太田光海)が滞在していたことのある村へ赴くこととなりました。
エクアドルとの国境に近い村に行くために、ボートでマラニョン川を旅しました。外国人が金を採掘している場所があちこちに見え、その作業で水銀が流れる心配があると、ワンピス族の人々が反対してパトロールしていました。
村には出産の前後で1カ月半くらいお世話になり、いろんなものを食べました。野鳥やサルやアルマジロやイグアナ、齧歯類まで、狩りで捕まってくれた獣はありがたく、焼いていただきました。主食は熟れる前のバナナを蒸したり、ゆでたり。「お金は人々を食べさせてくれないけれど、自然は養ってくれる」という感覚を身をもって体験しました。
ただ、アマゾンでもお金と引き換えに森を売る人たちも増えてきていて、都会では私たちはいま、食べきれない量をつくって捨ててしまっています。同じような問題を抱えています。
環境問題を訴えるとき、人間以外の生きものの視点に立とうとする姿勢は大事だと思います。残念ながら人類ほど多くの種を絶滅させてきた動物はいないでしょう。人類の住む場所や食べるもののために森を伐採して、ということをずっと繰り返してきました。
私も都会に住んでいる身ですから、自分の生活がたくさんの生きものを殺したうえに成り立っているんだよなってよく考えます。生きものの視点を裁判に持ち込むことは、過ちと向き合いながら地球の未来へ希望をもつ、ということにつながるのでしょう。地球は人類だけのものではないですから。(構成・小暮哲夫)