「あの時あなたはどこで何をしていた?」 9・11の衝撃 大国の横暴とソフトパワー
論説委員としてアメリカの対イラク開戦を批判していた筆者は、そのアメリカの招きで渡米し、武力だけではない大国の力の源泉を垣間見ることになります。
あの時あなたはどこで何をしていたか━━そんな問いがついて回る出来事がある。2001年の米同時多発テロ「9・11」は、典型例の一つになってきた。
ニューヨークの9・11 跡地にできた博物館に入ると、一報を聞いた各国の人々の驚愕(きょうがく)がそれぞれの言語で浮かんでは消える展示があった。日本語もある。
「この世の終わりかなと」「映画をみているような……とっても、現実とは思えない出来事に、言葉を失った」
日本時間では同じ日の夜、政治部の記者だった私は国会記者会館にある朝日新聞の部屋に入ったところだった。テレビ画面のなかで、以前に入ったことのある世界貿易センタービルが煙を上げている。1973年の完成当時は世界一の高さを誇ったツインタワーのうちの一棟だった。
「事故?」「わからん、そうじゃないか」
部屋に一人残っていたデスク(次長)とやりとりするうち、もう一棟のビルに飛行機がするすると近づくと激突した。「テロ……だな」。それぞれに電話を取り上げた。
アメリカの対テロ戦争が始まった。2003年、ブッシュ政権は根拠のあいまいなまま対イラク開戦に踏み切る。当時の小泉純一郎首相はいち早く開戦支持を表明、「国民の精神が試されている」と自衛隊のイラク派遣に突き進んだ。
朝日新聞はこの戦争に反対し、論説委員になっていた42歳の私は開戦支持を否とする原稿を書いた。イラク戦争には内外で反対運動が起きたが、米政権は耳を貸さず、日本は率先して米国に従った。湾岸戦争で「貢献策」を求められ、巨額の資金提供や機雷除去の掃海艇派遣に及んだが、評価されずに日本政府のトラウマになって10年余りが経っていた。
この80年、米国がどこかで武力行使に及ぶたび、日本は頭を悩ませてきた。振り回されてきた、と言ってもいい。敗戦で武装解除されたものの、朝鮮戦争を機に警察予備隊が生まれ、それは自衛隊になり、日米安保条約改定で日本は大騒ぎになる。やがては、旗を見せろ、陸上部隊を出せと迫られ、憲法との整合性にそのつど四苦八苦してきた。今では「日米同盟」という言葉がすっかり定着し、首相が米空母艦上で米兵に笑顔で手を振っている。
のちに明らかになった通り、米国のいう大量破壊兵器などイラクになかった。英国のように詳細な調査報告をまとめた国もあるが、日本は開戦支持の当否を検証することはついにない。80年前の悲惨な敗戦は何がもたらしたのか、その検証についても同様で、首相だった石破氏が節目の年に談話の発出ひとつ思うに任せなかったことは象徴的だった。
イラク戦争が始まった2003年、私は米国務省による記者招聘(しょうへい)プログラムで米国各地を回る機会があった。「9・11後の世界とアメリカ」をテーマに集まったのは、中国やタイ、フィリピンほかアジア各国の記者7人で、日本からは私一人だった。顔をそろえてからわかったのだが、全員がイラク戦争に反対していた。
ワシントンからセントルイス、オクラホマシティー、ニューヨークと場所を移しながら約2週間、議員や識者らゲストを招いての討論会が時に夜まで続いた。「なぜイラク戦争が必要か」について説得にかかったわけである。渡航費も滞在費もすべてアメリカが出した。
プログラムが終わる頃には7人の記者ともにぐったりとしたが━━速射砲のような英語に往生した私はとりわけ疲弊した━━、イラク戦争反対の考えが変わることはなかった。中国の記者が「アメリカは世界の声に耳を傾けよ」と演説調で話を始めるたび、他の記者同士で苦笑交じりに顔を見合わせたものだったが、イラク戦争批判に限れば同感ではあった。
それでも思ったのは、こうして言葉を尽くして説得にかかるところは米国らしいな、ということだった。途中、ミシシッピ川のほとりでのジャズ公演や、ミュージカル「シカゴ」を鑑賞する機会を設けるところなど、自分たちの強みをよく知っている。イラク戦争は間違いだが、こういうアメリカはやはり憎めない。
他の記者もそうだったし、このプログラムに限った話でもないだろう。様々なテーマで、様々な国の人たちを集め、意見の相違はあっても「米国ファン」にして送り返す。そこにかけるカネと手間を惜しまない。このソフトパワーこそ米国の力の大きな源泉の一つだった。
類いまれなその資産が、現政権下で失われつつある。イラク戦争が続いていた2007年、私は「愛国心」をテーマにアメリカを取材して回ったが、戦争こそ誤りでも、やはり嫌いにはなれなかった。
9・11の発生で直ちに閉鎖された場所の一つに、リバティー島がある。アメリカの精神を象徴する「自由の女神」像があるからで、新たな標的になることを警戒してのことだった。
見事な造形だと像を見るたび思う。どの角度からでも、遠目でも近づいても、絵として申し分ない。もちろんそれは、この像が米国の建国理念と共に人類普遍の価値を表象しているからこそでもあり、自由と民主主義がかなり怪しくなってきた今の米国にあっては、仰ぎ見ながらの感慨も少しく変わってくる。
女神も気の毒にと思うのは、今春の米誌「ニューヨーカー」が頭にあったからか。トランプ政権下、獄中でへたり込む女神のイラストの表紙が苦笑させた。フランスの欧州議会議員が「像を返せ」と言ったのも記憶に新しい。この像はフランスが米独立100年の記念として贈ったもので、台座はアメリカが用意した。
うち捨てられ、疲れ切って貧しく、そして自由に焦がれる人々よ、私のもとへ━━。台座に刻まれた言葉は、ここが移民の国であり、希望の地であることを端的に語っている。しかも自由と平等はひとり米国のものではなく、それを世界にあまねく広げる意志を像は示していて、日本国憲法の前文を借りれば「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」せんと督励してもいる。世界中から引きも切らない観光客は、物見遊山だけで片付けてしまえるものではないだろう。
マンハッタンの南で海を見渡す像は、出来て140年近くになる。この先も凛(りん)とした姿を保てるのかどうか、今は分かれ目かもしれない。外部からの攻撃でなく、内側からむしばまれていくのを危ぶむ日が来るとは思いもしなかった。