12月7日に生まれて 夢ふくらませ、あこがれた自由の国アメリカはどこに
アメリカ文化に浸かって育ち、長じて何度も旅してきた記者が、新聞社を離れる前にもう一度ニューヨークを歩き、日米の今昔とこれからを考えました。
今特集の6本の記事と、1本の特別編をお届けします。
ダイアン・キートンの訃報(ふほう)を聞いたのは10月半ばの肌寒い朝、ニューヨークのホテルの部屋だった。テレビのニュースが「アニー・ホール」の懐かしい場面を映している。ウディ・アレンと共演し、男物の服を自由に着こなして一躍スタイル・アイコンになった1977年の映画である。以来、79歳で亡くなるまで、その称号は変わることがなかった。
アレンとの共演では「マンハッタン」(1979年)も忘れがたい。全編モノクロの映像、ガーシュインの音楽、ニューヨークの風景と日常、機知に富んだ会話━━若かった私は勝手に「古き良きアメリカ」を思い、ふくらませ、あこがれた。
今年はロバート・レッドフォードも逝った。権力を追及する新聞記者を演じた「大統領の陰謀」(1976年)を見て、同じ道を志した先輩を私は知っている。
音楽界ではコニー・フランシスやブライアン・ウィルソンが相次いで逝き、ニューヨーク滞在中にはロックバンドKISSのエース・フレーリーの訃報も流れて、若い頃に私がなじんだアメリカが次々と消えていくようだった。
10年前ならまた違ったかもしれない。切なさには、トランプ政権で顔つきを変えたアメリカそれ自体の姿が大きくあずかっていた。実験国家とはいえ、これは矩(のり)を超えていやしないか。
ちょうど65年前の今日、1960(昭和35)年12月7日に私は東京で生まれた。アメリカでは真珠湾攻撃と同じ日付なので覚えてもらいやすい。
日本の敗戦から15年が経っていた。80年を数える今となれば「戦後まもない」頃のようにも思える。経済白書が「もはや戦後ではない」とうたって4年が経っていたが、町で傷痍(しょうい)軍人を見かけることは珍しくなく、親は空襲で大変な目に遭っていたから、戦争について見聞きすることは日常的だった。遊びはチャンバラごっこに紙芝居の時代、「戦後」はまだ実感を伴っていた。
「アメリカ」という言葉を私が初めて意識的に聞いたのはいつだったろうか。もちろんそれは戦争と不可分で、「日本にひどいことをした」国として我が家では語られた。ただし母の話はいつも「日本は中国にひどいことをした」とセットで━━「中国」は朝鮮になったり他のアジアの国になったりした━━、アメリカについても「あんな大きな国に勝てるはずがないのに」と矛先はむしろ日本の見境のなさに向けられた。
もっとも、そうしたことを考えるのは後年で、さあ経済成長だという時代の呑気(のんき)な子供の一人として私はアメリカに出合った。テレビ番組では「名犬ラッシー」「ポパイ」「トムとジェリー」あたりからだったと記憶する。子供心にも、米国はとても豊かで、楽しそうだった。
映画にジャズ、小説、その後もアメリカの大衆文化はいつもそばにあった。インターネットや携帯電話はまだずっと先の話、FEN(米軍のラジオ放送、現在のAFN)から流れるヒット曲が楽しみだった。1980年代には豪州を経て放浪するに及び、西海岸を北上するとグレイハウンド・バスで大陸を横断し、ニューヨークにひと月ほどいた。42番街の安宿で、通りにはのぞき小屋が並んでいた。
キートンの訃報を聞いて、夕暮れのクイーンズボロ橋に出かけた。映画「マンハッタン」に登場する橋である。
主役の2人がそうしたように、ベンチに座ってイースト川に架かる橋を眺める人たちがいた。1人だったり、2人連れだったり、都市の喧噪(けんそう)とは無縁なひとときを過ごしては立ち去っていく。
高齢の夫婦とおぼしき2人がいた。それぞれに補助車につかまっている。聞けば男性は94歳という。
「一番良かった時?そりゃ生まれてから今日までずっとさ。トランプはとんでもない大統領だけど、アメリカはきっと昔のアメリカに戻るだろう」
さあその映画は見たことないな、と彼は言い、近所だという住まいに妻と並んで戻っていった。