消えゆくにおいを未来へ 記憶と共感をつなぐ嗅覚遺産
「あるミイラは、紅茶の強い香りがした」
UCLの「持続可能な遺産研究所」研究ディレクターをつとめるベンビブレさんは、今年2月に行ったばかりの研究について興奮気味に振り返った。
エジプト考古学博物館やEU諸国の大学と連携し、博物館に収蔵されている9体のミイラのにおいを復元する初の試みだった。研究者自身の鼻も使いながら、「非破壊的な手法」でにおいの分析を行った。
「貴重な文化遺産であり、ひとつしか存在しないもの。慎重な科学的アプローチが求められた」。一番古いもので5千年の歴史があるミイラにもにおいがあり、何千年も前の防腐処理に使われた素材の一部が、今でも嗅ぎ取れるほど残っていることも確認できた。
紅茶のほかにも「シナモン、レモンオイル、松のような針葉樹の香りがした」ミイラもあったという。においの発生源としては、当時の防腐処理の素材や木材や布の劣化によって生じたにおい、近代以降に、ミイラの損傷を防ぐために使われた合成殺虫剤などがにおいの発生源として特定された。
分析を元にミイラのにおいを再現し、古代エジプトを五感で体験できるような展示の実現を目指している。
「においには共感や記憶を呼び起こすと強い力がある」とベンビブレさんは言う。
「パンデミックで多くの人が嗅覚を失ったとき、私たちは初めて、愛する人や、場所のにおいがどれほど大切だったかということに気づいたのです」
彼女が率いるチームは、においを嗅ぐことのできる展示をしていたヨーロッパの博物館8カ所で調査。「来館者はにおいによって歴史への理解を深め、過去の人びとの生活に共感し、その体験を分かち合うことを楽しんでいた」という。「こんなにおいだったのか」と語り合うことで、新たなコミュニケーションが生まれる。
時をさかのぼっても共感を生むにおいの働きに目をつけた彼女がいま力を注ぐのは、時間とともに消えゆくにおいを「文化の記録」として残すことだ。冒頭に書いた、古代エジプトのミイラのにおいを復元する試みもその一つだ。
保存や伝達が容易ではないにおいを残すのはなぜなのか。そう問うと、ベンビブレさんは答えた。「においの保存は単なる物質の保存ではなく、人間の体験や記憶、文化的な意味を未来に伝えることが本質なんです」
「においは脳内での知覚であり、文化や物語と深く結びついています。だからこそ、化学的な成分の記録だけでなく、人がそのにおいをどう感じ、どんな物語や価値を見いだしてきたかまでを記録することが、嗅覚遺産の本当の役割なのです」と。
アルゼンチン生まれのベンビブレさんが「香りをアーカイブしたい」と思ったきっかけは、ロンドン中心部にあるセントポール大聖堂の図書館だった。18世紀の建設で、何百年も前の本が所蔵されている。
読書好きで、幼いころから古書に囲まれて育った。「電子書籍を使う若い人たちに、私の好きなにおいを伝えたかった」。古くなった紙から出る化学物質を分析して「レシピ」をつくり、甘い香りや刈ったばかりの草のようなにおいを混ぜ合わせて古書のにおいを再現した。
私にも嗅がせてくれた。アーモンドと古い革かばんが混じったようなにおいがした。
ろ紙に染み込ませたそれは、私が日本に戻った後もポーチの中でほのかに香り、そのたびに遠く離れた英国で会った彼女と、行ったこともない図書館の本が頭に浮かぶ。
記憶や感情と分かちがたく結びついているにおいを記録し、それが紡ぐ物語を後世に残す彼女の研究は、「感情の記録」をつなぐ試みなのかもしれない。