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中国雑技団の「生きた化石」 激動の近現代史を生き抜いた祖父

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1950年、雑技団が初めて訪ソしたときのモスクワでの演技。自転車に乗っているのが金業勤=自伝より

「中国雑技団の『生きた化石』」
「『最後のボス』が亡くなった」

今年7月。そんな見出しと共に、相次いで中国メディアにある男性の評伝が載った。心筋梗塞で95歳で亡くなったということと共に、中国雑技団の団員として、激動の中国の歴史の渦の中を生き抜いてきたということが書いてあった。

名前は金業勤。私の祖父のことだった。

ラオイェ(姥爷)。

中国語で母方の祖父のことをこう呼ぶ。中国出身の母と日本人の父親がいる私のラオイェ、金業勤は、日本製のカメラが大好きで、北京の自宅にはNikonやCanonのカメラが何台も置いてあったのを記憶している。85歳を過ぎてからパソコンとスマートフォンを習い始め、中国国内で海賊版として出回っていたフォトショップを使いこなし、自分で撮った写真を加工するのが趣味だった。

私はラオイェとは血がつながっていない。中国人の祖母(89)とは、私が産まれた少しあとに結ばれた再婚同士の老夫婦だったためだ。血縁はなくても、物心ついた時から私にとっては紛れもなく中国側の家族で、小さいころから「ラオイェ」と呼んで慕ってきた。

祖父が亡くなった時、祖母は病気で入院中だった。コロナ禍で親族は誰ひとり最期に立ち会うことはかなわず、祖父は搬送先の病院で1人で逝った。葬儀と火葬には5人しか参列できないと当局に言われたそうだ。孫にあたる私はもちろん、当時日本にいた義理の娘である私の母も、葬儀には間に合わなかった。

1951年ベルリンで開かれた第3回世界青年学生祝典で演技する金=自伝より

私にとってラオイェは、自転車に乗るのが、歩くことよりも上手な中国のおじいちゃんだった。おしゃべり上手だったが政治的な話をすることはほとんどなく、過去にどんな経験をしたかなど、自分からはほとんど語らなかった。だが、成人し、朝日新聞記者となった私は、長期休みを利用して祖父母宅を訪ねては、少しずつ話を聞き始めた。自分の中国の家族が生きた中国近現代史を、もっと知りたいと思ったからだ。

ラオイェが急死し、もう直接話を聞くことはできなくなった。地元紙や、彼の自伝を読み返し、改めて、祖父が歩んできた人生は、ダイナミックに変わっていった新中国の歩みそのものだったことに気づいた。今回、葬儀などを取り仕切ってくれた弟子の張兵さん(57)に通話アプリで話を聞くこともでき、改めて金の人生を新聞記者の目線で描いてみようと思う。

2人乗りの自転車技を練習する様子。下で自転車に触れている方が金=自伝より

「北京の浅草」天橋で名を成す

金業勤は1925年、北京の自転車修理業を営む貧しい家庭に生まれた。満州族で、本人が持っていた家系図によると、先祖は愛新覚羅家の太祖ヌルハチにまで行きあたる。1937年、盧溝橋事件を機に日中戦争が本格化すると、北京(当時は北平)での商売が続けられなくなった。当時7歳。おもちゃのように使い慣れた自転車を武器に、サドルの上で一本足立ちしたり逆立ちしたりして日銭を稼いだ。生まれつき体が柔らかく、飛び抜けて運動神経が優れていたらしい。12歳ごろ、才能を見込まれて天津に渡り、本格的に雑技を学んだ。17歳で北京に戻ると「北京の浅草」と呼ばれる大衆芸能の町・天橋で名を成した。いつも屋外で自転車芸を披露し、肌が黒いことから、「小老黒」(“老”は常に、という意味。真っ黒なちびすけ)と芸名がついた。

終戦前の1944年のある日、演技が終わった金は、仲間内で日本兵の悪口を言ったという。そのことが人づてに伝わり、若い日本兵が来て連行されそうになった。「演技を見せたら、しかめ面をしたまま見逃してくれたよ」。晩年、白い歯を見せて笑いながら、私にそんな話をしてくれたのを覚えている。

新中国誕生の翌50年、金は他の大道芸人と北京の中南海に呼ばれ、毛沢東や周恩来ら国家指導者たちの前で芸を披露した。その時の記録が、自伝(「我从老天橋走出来」2016年)に残っている。

1954年、チベットで、中国共産党軍とチベット族向けに開かれたサーカスで演技する金=自伝より

周恩来が名付けた「雑技団」

観劇を終えた周恩来は、金たちに向かってこう言ったという。

「表現者は国家の宝だ。新中国の文化の使者、平和の使者として、戦争を乗り越えた中国人民の勤労と知恵、そして生まれ変わった中国人の明るい将来を世界で表現して欲しい。祖国の思いを託したぞ」

「ところで、君たちの演技には『総称』がないな。一輪車に魔術、曲芸、手品となんでもある」。しばらく考えたあと周は言った。「雑技と呼んだらどうだろう」と。

50年10月、周恩来の提案によって「中華雑技団」(53年に中国雑技団と改名)と名付けられた。今に続く中国初の国営サーカス団が誕生した瞬間だった。金をふくむ芸人は、正式な「国家団員」となった。

1950年代、ソ連、ポーランド、北朝鮮などの国をめぐって演技していたころの金=自伝より

建国間もない中華人民共和国を率いていた毛沢東は、1949年12月にモスクワを訪問してスターリンと会談し、翌年2月に「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結していた。中ソ蜜月の始まりである。毛沢東は早速、中華(国)雑技団をソ連に送った。50年11月7日、ソ連の革命記念日に合わせて訪ソした金は、初めて赤の広場に足を踏み入れた時の感動をこう書き残している。

「スターリンやモロトフがレーニン廟へ行くのを目の当たりにした。赤軍の閲兵式は荘厳で、みたこともない巨大な兵器や戦車が次々と現れ、私たちの前を通り過ぎた時は地響きさえ鳴った。その後に披露された華麗な舞踊は美しいという一言では表しきれない。これがソ連か。私たちは幾万人もの人々から喝采を受けた。私は叫んだ。『中国万歳!毛沢東万歳!スターリン万歳!』。中国人として初めて誇りを持った。私たちは生まれ変ったのだ…」

雑技外交が裏目に

1966年に文化大革命が始まるまで、中国雑技団は中国と欧州を中心に200回以上公演した。多くは中国と国交さえなかった。70年代、その後の米中国交正常化に結びついた「ピンポン外交」があったように、50~60年代にかけてまさに「雑技外交」が行われていたのだ。
金は第一線の雑技団員として活躍し続けた。57年、モスクワで開催された第6回世界青年学生祝典では中国人として初の金メダルに輝いた。「銀メダル以下だったらもどってくるな」という共産党トップからのプレッシャーのもと、もぎ取った1枚だった。

ここから、少しずつ金の運命は狂いはじめていく。

その後の文化大革命にもつながる、毛沢東の本格的な政治運動「反右派闘争」がこの年に始まっていた。その前年に自由な発言を奨励されていた「百家争鳴」運動から一転、知識分子や民主派が一気に右派分子としてつるし上げられたのだ。

その、百家争鳴の時期に、金は党にこんな提言をしていた。

「ソ連や他の欧州国家を見習ってはいかがでしょうか。ユーモアに溢れ、彼らは芸術の中に風刺をうまく取り入れ、政治に影響をあたえています」

この発言が引き金になったのか、金は晩年になっても「わからない」と振り返っている。「聞けば聞くだけ、政治発言が増えてマイナスになるから」

文化大革命さなかの1968年ごろにあった金を批判するチラシ。「三反分子」(反中国共産党、反社会主義、反毛沢東思想)と名指しされ、名前の上に×印が書かれた=自伝より

文化大革命が始まると、金の活躍はすべて裏目に出た。海外での公演数が多いことは弾圧の対象にもってこいだった。スパイと疑われたこともあった。自転車に乗っていることが「労働階級を飛び越そうとしている」という理由で批判闘争に引っ張り出され、「牛棚」と呼ばれる収容所にも2度入れられた。

話したがらなかった文革の思い出

だが、この時の話を、金はどんなに聞いても詳細には話したがらなかった。

2006年、私が朝日新聞に入社し、記者になると、当初はとても喜んでくれた。「日本人は礼儀正しい。中国も礼を重んじる。両国は本来、とても仲良くなれるはずなんだ」。日中関係が悪化するたび、そう話していた。中国で国内外の記者や弁護士が拘束される事件が起きるたび、私の身を案じてもくれた。私は「日本では記者が捕まることはないから」と伝えていた。
近年、私は夏休みを利用して祖父母の昔話を書き取り始めていた。祖父母に「あなたたちが経験してきたことについて、きちんと書き残したい」とも伝え、祖父母も喜んで協力してくれた。
金は、周恩来や毛沢東、スターリンの前で演技を披露したといった話は目を細めながらした。しかし、話が「党」のことになると、饒舌さがいつも消えた。ため息をつき、もっぱら「共産党は偉大だ」と繰り返した。その姿はあまりにわざとらしく、皮肉にしか聞こえなかった。
ある年の夏休み、文革のことに話が及んだ時だ。いわれのない罪で金が弾圧の対象になったときの状況や気持ちについて「もっと詳しく教えて」と詰め寄ったときだった。いつものように私がテーブルの上に置いたICレコーダーをにらみ、金は声を荒らげた。

「お前にこれ以上は話さない」
「ここまで生きるのはたやすくなかった。せめて平穏に長生きしたいという願いを聞いてくれ」

はき出すようにそう言うと、寝室にこもってしまった。その後ろ姿をみながら祖母は「彼は、文革で本当に苦労したのよ。捕まった同僚もいたし、投獄されたまま亡くなった人もいた」と呟いた。

「お前に本当の中国(共産党)を理解することはできないだろう」。今もノートに残る最後の祖父のコメントだ。

1992年、優れた雑技者に贈られる「百劇賞」が創設され、初の受賞者となった=自伝より

現役を退いたあとも、新しい演目を導入したり、後継者を育てたり、国内のテレビやラジオで晩年まで出演活動を続け、中国雑技団の広報と発展に尽くした金。

日本にも何度か来ていて、最後に訪日したのは90歳の誕生日を目前にした2015年3月、孫である私の東京での結婚式に参列するためだ。「人生最後の飛行機」に乗って、週末に連れて行った富士山のふもとの温泉宿では、半年かけて練習した日本語の「桜」を熱唱してくれた。

日本にもたびたび訪れた金。最後に訪れたのは2015年。富士山が見える旅館では、祖母(左)とともに浴衣に身を包み、抹茶や温泉を堪能した。日本の文化がとても好きだと話していた=2015年3月、山梨県

張さんによると、コロナ禍にもかかわらず葬儀場の外には100人を超える弟子たちが駆けつけたという。「金老師は、芸を磨きたければまずは己を磨けとよく言っていた。多くの団員に慕われていた」と振り返る。

金は亡くなるひと月前、通話アプリに「みんなが幸せなことが私の幸せだ」と音声メッセージをくれた。当時、私は多忙を理由に返信をしていなかった。雑技団で鍛え抜かれた身体は晩年になっても健在で、コロナ禍でも電動自転車にまたがって買い物に出かけていたあのラオイェが病弱な祖母より先に逝くなんて、思ってもいなかった。

最後に会ったのは2019年夏だ。筆者(右から2番目)の息子たちの成長と幸せを何よりも願ってくれていた=2019年8月、北京で

「ここまで生きるのはたやすくなかった」。いつも笑顔で私の質問に答えてくれていたラオイェが、深いため息とともに放ったあの一言は今も忘れられない。彼が生きたあの時代を、独裁国家に住んだことも、政治闘争を目の当たりにしたこともない私が理解できないという指摘も、きっとその通りかもしれない。だが、激動の中国を生き抜いた人の証言を聞く機会は、刻一刻と失われている。世界で台頭し続けていながら、厳格な監視システムと報道規制を敷いて独自の政治路線を歩み続ける隣の国。理解をするには、金の世代が何を体験し、どう受け止めていたのか、知ることが必要だと思う。もっともっと、話を聞いておけば良かった。今はただ、そう思うばかりだ。

寂しく旅たったラオイェ、あの世で仲間と白酒でも飲み交わしているだろうか。