くさい博物館対決!? 英国の客船で再現 × パリの下水道の現実
「世界一くさい?」とアピールする博物館が、英国南西部の港町ブリストルにある。19世紀に大西洋横断航路で使われていた「SSグレートブリテン号」だ。イギリスが生んだ天才技術者、イザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel)の設計で、それまで木造が主流だった船の世界で、初めて鉄製の船体にスクリュープロペラを備えた大型旅客船。
引退後は「生まれ故郷」のヤードに戻り、博物館船として公開されている。
入った瞬間、足が止まる。「オエ、オエー」。え、誰か吐いていますか?
「ええ、船員がそこで」。案内役のナタリー・フェイさん(34)の視線を追うと、四つんばいになって木製の容器に顔を突っ込んでいる女性船員。
人形だった。
スピーカーから流れる嘔吐(おうと)の音とともに、ツーンとしたあのニオイが。
子どもを抱いた母親や、病床に伏せる老人。航海当時の船内の一場面を切り取ったように再現され、本物かと思うほどリアルだ。だが、この博物館の一番の特徴は、嗅覚を使った体験型展示であること。厨房(ちゅうぼう)に置かれた作りかけの料理から、一緒に運ばれる家畜。いずれも模型だが、においがある。
下層クラスの客室では、2カ月間の旅を乗客が2着の服を交互に着てしのいでいた様子を再現。船内に干した汚れたリネンからは、尿や汗が混ざったようなにおいが鼻をつく。トイレのドアを開けると、アンモニア臭に思わず後ずさりした。激しい揺れで船員まで吐いてしまう船内に、まるで、私自身がいるようだ。
「博物館の多くは、展示物がガラスケースに入っていますよね。精巧に復元してもガラス越しの展示では人の営みを感じない。においは、空間に命を吹き込み、訪問者を19世紀の世界に引き込む力を持っているんです」とフェイは語る。
1970年に公開した当時は「生活感がなく、静かで無菌的だった」という。においの再現で定評のある英企業AromaPrime社と協力し、2005年、においを取り入れた。
排泄物(はいせつぶつ)は文献や乗客の日記を調べて、当時食べていたものを研究して再現した。ほかにも「医務室」「焼きたてのパン」など、15のにおいを再現。原液を希釈し、機械を使ってエリアごとに漂わせている。当初は「全開」にしていたが、強烈すぎて体調を崩す訪問者も出たため、レベル調整している。
AromaPrime社の「歴史の香りコンサルタント」リアム・フィンドレイさん(31)に言わせると、においの再現は「資料をもとに物語を描くような作業」だという。「視覚・聴覚だけでは伝えきれない過去の生活を、嗅覚で補完することで没入感と共感を生み、想像してもらうことが目的です」
あえて不快なにおいも再現するのはなぜか。
フェイは言う。「歴史を清潔にしすぎてはいけない。当時の船には、興奮や騒がしさ、混沌(こんとん)とした生活のにおいが満ちていたはず。そんなにおいを使って、歴史を少しだけ鮮やかによみがえらせているんです」
ルーブル美術館、ノートルダム大聖堂など文化施設が並ぶパリのセーヌ川。川沿いの「下水道博物館」には、華やかな地上とは正反対の世界が待っていた。
エレベーターで地下へ。ピカピカに磨かれた扉が開いた瞬間、湿った空気と、モワッと生暖かい汚臭に体全体が包み込まれる。
博物館は、パリ市民の下水を処理している現役施設の一部で、処理された水はセーヌ川に流れ込んでいる。約500メートルの見学ルートでは、パリっ子が今この瞬間も流しているだろう排泄物を含む、リアルな下水を見ることができる。
手を伸ばせば届きそうな高さには、直径50センチはありそうな太い下水管。腐敗した野菜のような、生ゴミと排泄物が混じったような、金属的な刺激臭がする。鼻をつまんだが、時すでに遅し。強烈な悪臭のかたまりが、鼻腔に押し入ってくる。30分も歩くとクラクラしてきた。
床の鉄格子越しに汚水が見える。「ゴオーッ」という音とともに茶色い固形物がプカプカ流れている。鼻が曲がるとはこのことか。
館内の一角には、19世紀前半のフランスを舞台にしたビクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の一場面を描いた壁画があった。物語の終盤、ジャン・バルジャンが負傷したマリウスを背負い、追っ手から逃れるために下水道内を逃げるシーンだ。時には汚水の中を歩くと思うと、物語とはいえ、身震いしそうだ。
ガイドのアダム・インタウングさん(21)は「ドブネズミもいますよ」と笑う。来場者の反応はさまざまで、においに耐えられず5分で出る人もいれば、花の都の裏の世界に感動する人もいるそうだ。
パリの下水道の起源は14世紀。ナポレオンの時代に整備が進み、現在では2600キロ以上のネットワークが地下に張り巡らされている。1867年の万国博覧会では、ボートでの下水道ツアーが人気を集め、世界の王族や技術者ら多くの人々が「地下のパリ」を見に訪れた。
1975年、正式に下水道博物館として開館。2021年に全面リニューアルされた。強烈なにおいは無調整だ。「ここにあるものはすべてが本物だ。トイレ、キッチン、雨水。人が生活する限り、汚水は生まれます。だからこそ、においも含めてリアルに学んでもらいたい」とインタウングさんは力説する。「見せたくないもの」をにおいつきで見せることで、歴史と現実を脳内にたたきこんでくる。
不思議な感覚を覚えた。
「くさい、くさい」と思いながら館内を歩いていると、突然それが懐かしいという気持ちに襲われた。「なぜだ……。私は下水のにおいなんて嗅いだことないのに」
直後に祖父母の顔が浮かび上がる。思い出した。幼少期によく訪れていた、中国・北京のアパートのトイレのにおいだ。中国出身の私の母方の祖父母は、1960年代に建てられた北京の古アパートに住んでいた。洗面所、トイレ、シャワールームが一体となっているつくりで、漏水もよく起きていた。
その、トイレのにおいと同じだった。
遠く離れたパリの地下で、亡き祖父母の家を思い出していると、目の前に流れる下水すら愛おしく思えてくる。
だが、くさいことには変わりなく、約1時間半の滞在を終え、地上に上がると、車の排ガスさえ心地よく感じた。服と鼻に染み付いた汚臭を何とかしたくて、地下鉄に飛び乗って香水博物館に駆け込む。
フランスの香りの歴史が紹介されていた。衛生環境の悪化により汚臭が漂っていた19世紀のパリで、人々はにおいから逃れるすべを求めていたという。
それが香水だったのね、と深くうなずいた。