ソ連の抑圧と「語れなかった歴史」と ウクライナ独立運動に火をつけた

市役所があるリビウの市場広場【下の衛星写真参照】には、16、17世紀からのルネサンス様式の歴史的建物が立ち並ぶ。そばで菓子店を営むボフダナ・バチンスカさんを私が訪ねたのは、オーストリア帝国時代からリビウに住む家族を捜していたときだった。バチンスカさんの曽祖父は1906年に別の都市からリビウに移ってきたという。
しかし、バチンスカさんの話は意外な方向に進んだ。彼女の祖父と祖母の代まで一家はオペラ劇場のすぐ北の大きな家に住んでいたが、第2次大戦でソ連当局に接収され、小さなアパートに移住させられた。祖母は独ソ戦が始まった1941年、その接収された家の近くで大勢の人が血を流して倒れているのを見たのだという。祖母が自宅を訪ねてきた知人にそう話すのを聞いたのは、バチンスカさんが10歳前後の1970年代だった。それが当時のソ連内務人民委員部(NKVD)による虐殺事件だったことを、バチンスカさんは大人になってから知った。
ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破棄して現在のウクライナ、ベラルーシ西部に侵攻したのは1941年6月。混乱に陥ったソ連当局は複数の刑務所で拘束していた政治犯らを無差別に殺害した。独立後のウクライナ内務省の資料によると、死者は計2万4000人に上る。
ドイツが敗れ、リビウが再びソ連に併合された戦後、この事件に触れることはタブーだった。祖母は1982年に72歳で他界したが、バチンスカさんはひそひそ話をする顔を今も忘れていないと言う。「ソ連時代、禁じられた話はそうやって、他に誰も聞いていないところでするしかなかったのよ」
バチンスカさんの祖母が事件を目撃した場所には今、犠牲者の名を刻んだ大きな石のモニュメントが立つ。
後に「ジェノサイド」(集団殺害)の言葉を生み出したラファエル・レムキンは、1926年に現在のリビウ大学を卒業するとソ連の刑法についての本を出版。ジェノサイド条約採択後の1950年代の論文で、ホロドモールや知識層の粛清、強制移住などのソ連のウクライナ政策を「古典的なジェノサイド」と位置づけた。
第2次大戦後も、ソ連はウクライナ西部の独立運動を徹底的に弾圧した。特に潜行してソ連の支配に抵抗した「ウクライナ蜂起軍」(UPA)に対する掃討作戦は過酷を極めた。
リビウ市議で映像作家のタラス・チョーリーさん(45)は子どものころ、活動とは関係のなかった父親が「これがウクライナのシンボルだ」と現在のウクライナの国章である三つまたの矛を紙に描いて見せたのを覚えている。父はその紙が後に残らないよう、すぐに火をつけた。三つまたの矛も、今はウクライナ国旗となった青と黄色の旗も、厳しい取り締まりの対象だった。
ソ連末期、独立を求めるウクライナの世論が一気に加速する。その理由の一つは、最後の最高指導者ゴルバチョフが進めた情報公開(グラスノスチ)でソ連による過去のウクライナ弾圧の記憶が公然と語られるようになったことだ。公の場に青と黄色の旗を掲げる運動は、リビウからウクライナ全土に広まった。
運動の中心メンバーだった元リビウ州議会議員オレフ・ペトリクさん(77)は「我々は最も行動的なグループだった」と振り返る。1990年3月に市役所のポールに旗を掲揚したときは市の役人たちも降ろそうとせず、ソ連の地方当局が青と黄色の旗を事実上認めた初のケースになった。
両親はUPAのメンバーだった。過去を隠して暮らしたが、家には手描きで青と黄色の旗を描いたグラスがひそかに保管されていたという。