「西側は、まるで分かっていない」
この一節で、英脚本家ピーター・モーガン作の演劇「Patriots(パトリオッツ=愛国者たち、2022年初演)」は始まる。語るのはロシアのオリガルヒ(新興財閥)、ボリス・ベレゾフスキー。このせりふで、ロシアの食べ物や風景、音楽が偉大なロシア人の精神を育んでいると説く。
それが、英演劇監督ルパート・グールドの娯楽的な演出では、酔っぱらいの歌やバラライカの響き、ときには毛皮の帽子で表現される。いささかカフェインが効きすぎて興奮状態になっているといえなくもない。
ロンドンで生まれたこの「Patriots」が、米ニューヨークのブロードウェーにやってきた(訳注=2024年4月22日、エセル・バリモア劇場で開幕)。主な配役をいくつか入れ替え、動画配信大手のネットフリックスがプロデューサーとして加わっている。
この劇は、現実に行われている権力に物をいわせた利益追求型の政治について、西側がいかに無知であるかを浮き彫りにしている。ソ連崩壊後の1990年代のロシアでカジノ資本主義(訳注=社会主義の計画経済のあとに生まれ、実体経済を無視した投機的な金融活動が密室の中で行われること)がはびこり、怨念や敵意、虐げられた尊厳が今の大統領ウラジーミル・プーチンをつくりあげたことについてだ。
もしベレゾフスキーに尋ねることができれば、「プーチンを作ったのは俺だ」とこたえるだろう。三流よりはるかに下の「十流」の無名の田舎者を、この国の権力機構にそっと押し込み、最初は首相、後には大統領にした、と。
マイケル・スタールバーグが演じるベレゾフスキーは、プーチンの「krysha(クリーシャ)」を自称する。ロシア語で「屋根」を意味し、比喩的には「守護者」となる。でも、本人の説明では「ひ弱なお前のそばに控えるいじめっ子」になるだろうか。
舞台のせりふはロシア語なまりで発音され、「krysha」は「creature(クリーチャー=創造されしもの)」のように聞こえる。紛らわしいのだが、これは意図された混乱であることが分かる。何しろ、創造者がつくりし者にとって代わられる殺伐とした筋書きなのだから。
ピノキオのお話に例えるなら、多くのピノキオたちが、自分をつくってくれた木彫り職人のゼペットおじいさんを何人も破滅させるということになる。
ウィル・キーン演じるプーチンは、昔も今もうそつきで、他人を巧みに操る人物だ。ベレゾフスキーは、少なくとも後者であることは間違いない。だが、西側では、この人物の何たるかはまったく知られていない。
この劇の中で、観客が彼に最初に出会うのは、9歳の数学の神童としてだ。それも、数学でノーベル賞を取ることに執着する、とても生意気な天才少年として。
ここで現実にはない「数学のノーベル賞」を持ち出したのは、脚本家モーガンによる物語の単純化の一例にほかならない。少年時代の関心が、後にどうなるかにスッと結びつくからだ。
何しろこの少年の興味は、合理的な状況であれ非合理的な状況であれ、(訳注=数式を踏まえた)人間の意思決定の予測可能性にあった。それは、少なくとも後に皮肉な状況となって展開される。
劇中、合理性も非合理性も表現される。合理的な選択を重ねながら、この「何でも知っている人物」(訳注=ベレゾフスキー)は億万長者になる。自らのビジネスを車からテレビ、石油へと、情け容赦のない陰謀を駆使して広げてゆく。
賄賂には応じそうにないプーチンに現金やメルセデス・ベンツを贈ろうとして失敗すると、自らが持つ権力に訴える方法に切り替えて成功する。
当時のロシア大統領ボリス・エリツィン(訳注=初代大統領。在任1991~99年)を、ポール・キンマンが扱いに困るパレードの風船のように面白おかしく演じている。その政権下の混乱は、いかさまや国・公営企業の民営化をめぐる不正行為に大きく道を開き、プーチンを懐柔したベレゾフスキーにはまさに好都合だった。
ベレゾフスキーがプーチンをつくり上げる一方で、愛嬌(あいきょう)と怒りっぽさと冷酷さをない交ぜにしてほかのみんなを血祭りにあげるシーンは、とても楽しい。
主役二人(ベレゾフスキーとプーチン)の演技はすばらしく、外側からは掘り下げるべき内面などないように見えるキャラクターの肉体と動作に血を通わせ、それによって感情に命を吹き込んでいる。
ベレゾフスキー役のスタールバーグは、体を丸めて大きな赤ん坊のようになり、こぶしを握りしめ、目をギュッと閉じて子どもじみたかんしゃくを爆発させる。
ロンドンでの上演からプーチン役をこなしているキーンは、つんざくような声を出し、プーチンがぎすぎすした精神の持ち主であることを描こうとする。自らの権力に不気味なほどなじむにつれ、当初のぎこちなさは消えて七面鳥のように得意げになる。
その権勢は、プーチンが大統領になったとたんにベレゾフスキーに向けられる。その後の筋書き、つまりベレゾフスキーの残りの人生は、自らがつくりし者の失脚とその政権の崩壊を祖国のために画策する展開に変わる。
では、ベレゾフスキーは真に愛国的だったのか。それとも、自己愛と銀行口座に傷をつけられたために逆上しただけなのか。その点について、モーガンは明確には描いていない。
しかし、ベレゾフスキーがつくりしもう一人の人物、ロマン・アブラモビッチ(訳注=オリガルヒの一人で、サッカーのイングランド・プレミアリーグの強豪チェルシーを保有していたことなどで知られる)もが自分に反旗を翻すようになると、凋落(ちょうらく)しつつあるベレゾフスキーは意思決定の合理性を失い、亡命先で死を迎える。自殺と見られる。
ネタばれをしようというのではない。事実に即したニュースなのだ。ときは2013年、ロンドンでのできごとだった。だからといって、筆者としてはこの劇を総じて信頼できる情報源として扱うつもりはない。あの数学の話だって、ほとんどでたらめだ。
やはりモーガンの作品である「ザ・クラウン」(訳注=英女王エリザベスⅡ世を主役にした米英合作のテレビドラマ)のように、少々安っぽく、事実の取捨選択がかなり偏り、おそらくは奔放すぎる想像力によってつくられたため、だぶつき感があるドラマになっている(長さをギュッと半分に縮めてもよいし、もっと引き延ばして2倍にしてもよいだろう)。
一方で、そうすることによって、これもまた「ザ・クラウン」と同じように、数人の俳優たちのとても素晴らしい演技を生み出している。スタールバーグやキーンだけではない。信じがたいほど陽気なアブラモビッチを演じるルーク・タロンも、これに入るだろう。
ただ、魅力的な女性役を探しても無駄だ。だいたいは後知恵の産物で、アクセサリー的な美女や、ベクデル・テスト(訳注=ジェンダー偏向度を測るテスト)の落第生のような役しか登場しないからだ。
とはいえ、「Patriots」は道徳的な情報の発信源として、ほかの作品より優れているわけではない。おそらく、そんな道徳的発信源となる芝居は存在しない。
プーチンは、ベレゾフスキーとその一派に堕落させられた内気で立派な市長として美化されている(訳注=現実のプーチンは、ロシア第2の都市サンクトペテルブルクの副市長から1996年にモスクワの大統領府に高級官僚として転じている)。
対照的に、何とかしてプーチンを失脚させようとあがくベレゾフスキーは結局、ある種の演出的な歓喜とともに落ちぶれたままになっている。その転落を演劇監督のグールドは、ロック調のオペラのように演出する。閃光と大音響がはじけ(それはしばしば暗殺未遂を暗示している)、不気味なダンサーが登場する。
この劇が分かりやすく道徳的なわけではないとしても、少なくとも一つの教訓は提示している。どんな暴君にも無垢(むく)な時代があるように、プーチンのような人たちにも無名の時代がある。巨悪となる前に、正したり、隅に追いやったりすることはできる。長く待ちすぎると、その機会は失われてしまうだろう。
この劇は、そんなことを示唆している。「まったく分からん」なんて、西側はもはやいってはいられないはずだ。(抄訳、敬称略)
(Jesse Green)©2024 The New York Times
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