デンマークの首都コペンハーゲンから北へ約20マイル(約32キロ)にあるルイジアナ近代美術館の階段下で、一人の女性がロシア大統領ウラジーミル・プーチンに向けて放尿している。
ロシア指導者のモノクロの肖像写真の上にあるテーブルに乗ってバランスをとりながら、真っ赤な目だし帽でブロンドの髪と顔を覆った彼女は、ゆったりしたドレスをグイとたくし上げて「自然の要請」に応え、肖像写真をビショビショにしてから地面に蹴り落とした。
このビデオ作品はアート集団「プッシー・ライオット」による最近のステージパフォーマンスで、同アート集団によるこれまでで最大規模の、そして主要美術館では初の展覧会のオープニング作品となっている(開催は2024年1月14日まで)。
蛍光色に彩られ、耳障りで混沌(こんとん)とした不快な音が鳴り響く部屋が観客を招いており、壁は奇抜な角度で貼られた写真、多くのビデオや粒子の粗い映像、手書きのテキストやドローイング(線画)で埋め尽くされている。
プッシー・ライオットの創設メンバーの一人マリヤ・アリョーヒナが監修した「ベルベットのテロリズム:プッシー・ライオットのロシア」は、10人から20人の間でメンバーが変動するフェミニスト集団による12年にわたる反プーチン活動の足跡を記録したものだ。
彼女たちはこの作品を「反体制芸術」「市民活動」「芸術様式に関わる政治行動」と表現している。プッシー・ライオットは当初、西洋のメディアにしばしば「バンド」と呼ばれていたが、常に媒体の枠にはとらわれずに芸術活動をしてきた。
ジャンルを超えた活動は、意図的であり、アナーキーで、DIY(自分で何でもこなす)志向で、幅広くかつ自発的な参加を働きかけている。ルイジアナ近代美術館のマゼンタ(赤紫色)の壁に、黄色いテープで書かれたギザギザした文字は「誰もがプッシー・ライオットになれる」とある。
アリョーヒナは、「マスクをして、自分の国で――そこがどこだろうと――不当だと思うことに対して積極的な抗議行動を起こせばいいだけのこと」と言っている。
ロシアの不正選挙や刑務所の劣悪な環境、女性蔑視に反対する2011年以降の初期作品は粗雑で場当たり的ではあるが、プッシー・ライオットの不朽の美学を確立している。
蛍光色の目だし帽に、鮮やかなタイツと半袖のドレス(ロシアの冬のさなかでも)を着たわずか数人の女性たちが、バスの上や地下鉄に組まれた足場、高級ブティックが立ち並ぶ通り、クレムリン(訳注=ロシア政府)と関係のあるバーの屋上、そして刑務所の外に立つ。大声で叫び、拳を突き上げ、ギターをかき鳴らし、発煙筒をたき、大騒ぎを起こしたりするのだ。
声を限りに叫ぶプッシー・ライオットの曲の歌詞は、愉快で挑発的だ。たとえば、「台所にあるフライパンでこの街を占拠しろ/掃除機を持ってきて、性的興奮を得ろ」といったものだが、残念ながらニューヨーク・タイムズ紙には印刷できない言葉が多く使われている。
いくつかは2010年代初頭の「アラブの春」を想起させる。これは反乱における世界規模の連帯と、革命思想を広める上でのデジタル技術や新しいメディア・プラットフォームが果たす役割への敬意でもある。
プーチンの2012年大統領選での再選と政教間のさらなる緊密化に抗議するため、プッシー・ライオットのメンバー5人はモスクワの救世主キリスト大聖堂を襲撃した。「神の母、聖母マリアさま、プーチンを追放してください」。彼女たちは、女人禁制の祭壇に手作りの衣装を着て立ち、叫んだ。
ルイジアナ近代美術館の広い空間がこの「パンクの祈り」にあてがわれている。「パンクの祈り」でロシア政府はプッシー・ライオットのメンバーのうちアリョーヒナとナディア・トロコンニコワの2人を「宗教的憎悪を動機とするフーリガン(暴徒)行為」の罪で禁錮2年の刑に処した。パフォーマンス自体はわずか45秒だったが。
多くの人がスターリン流の「見せしめの裁き」とみなすこの裁判は、当局者が用いた言葉遣いを含め詳細に報じられている。彼女たちのことを、捜査官は「悪魔」と呼び、高位聖職者は「女性ではなく、獣であり」、彼女たちの子どもは親から引き離されるべきだとし、法律家は「フェミニズムは大罪だ」と主張する(検察もまた、彼女たちは悪霊にとりつかれていたと論じた)。
この出来事は国際的なニュースメディアでひろく報じられ、西側諸国の著名な政治家や文化人らから支持を集め、プッシー・ライオットは米誌「Time」の表紙を飾った。欧州や北米の各地の都市で、デモ参加者たちは派手な目だし帽をかぶり、「プッシー・ライオットを解放しろ」と叫びながら街頭を行進した。
予想できたことではあるが、そうした行動は効果がなく、2人の女性は過酷な環境下で投獄された。釈放後、2人はすぐにプッシー・ライオットの活動に復帰した。
プッシー・ライオットの芸術は、混沌(こんとん)とし、驚きに満ち、視覚的に印象的で大胆な時に最高の状態になる。「プーチンは祖国の愛し方を教えてくれる」(と題する作品)。これは、2014年のロシア・ソチ冬季五輪でのプッシー・ライオットによるミュージックビデオの制作過程を映画と写真で記録したものだ。
当時、プッシー・ライオットはロシアの治安当局に監視され、路上で歌っている際に暴力的に脅された。
「ワールドカップで警察官が試合に登場」(というビデオ)では、2018年のサッカーW杯の決勝戦(訳注=ロシア開催で、決勝戦はモスクワでフランスとクロアチアが対決)で、治安要員に扮したプッシー・ライオットのメンバー4人がピッチに駆け込み、警備員にコミカルに追いかけられ、場外に無理やり追いやられる(4人のうちの一人は、キリアン・エムバペ〈訳注=当時メディアで「世界最高」と評されたフランス代表選手〉とのハイタッチに成功した)。
プッシー・ライオットのYouTubeチャンネルで同時に公開されたビデオは、公正な選挙と政治犯の釈放を要求した。
こうした展示では、完成されたオブジェではなく、ライブ・アクションの中に包含された美術史的運動とプッシー・ライオットが呼応することで会場を活気づけている。未来派、ダダ、状況主義、フルクサス、アクション主義、フェミニスト・パフォーマンス、ライオット・ガールなどだ。
展覧会が、より基本的な活動(看板を掲げたり、プライドフラッグを立てたり、親ウクライナの落書きをしたり)のドキュメントに迷い込んでも、悪化する権威主義下における勇気の記録として興味深いことに変わりはないが、芸術ではなくなってしまう。
あからさまか否かにかかわらず、すべての芸術は政治的であるとよく言われている。アリョーヒナの展覧会は回顧展であると同時に、2022年のウクライナへの全面侵攻を頂点とするプーチン政権の進化の行程表でもある。
これはまた、ロシアの野党政治家らを含む市民が投獄され、毒を盛られ、殺害されているさなかにビジネス上の利益を追い求め、見て見ぬふりをしてきた西側諸国の共犯関係に対する暗黙の叱責(しっせき)でもあるのだ。
近年は、政治的な主張をたくさん盛り込んでいるが、作品からそれを読み取るのが難しい展示が多い。そうした整然とした主張は、芸術が変化を促しうると依然として信じているならば、だらけていて、冷笑的である。「to have skin in the game(社会を変革するために、自分ごととして取り組む)」とは、どういう意味なのか? 立ち入り禁止の空間を占拠する意味は?
プッシー・ライオットの活動は、アーティストであろうがなかろうが、市民活動はすべての人の責任ある市民権の一部であるということを示す芸術的社会実践である。つまり、誰もがプッシー・ライオットになれるのだ。(抄訳)
(Emily LaBarge) ©2023 The New York Times
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