シュールレアリスム(超現実主義)の画家サルバドール・ダリ(訳注=1904~89)は1969年、うち捨てられていた城郭風の大邸宅をロシア出身の妻ガラにプレゼントした。彼女は、夫の気前の良さを喜んだが、新しい住まいになったこのスペイン・カタルーニャ地方の村プボルの邸宅についてルールを設けた。夫サルバドールは、妻ガラからの招待状を受け取った時にのみ邸宅を訪れることができるというルールだ。
「神経を過敏にさせる宮廷風の愛の儀式が実証したように、感情次第の厳格さと距離が情欲をかきたてた」。ルールに黙従したダリは後年、そう書き残している。
ガラがつくった奇妙な訪問儀礼の話は、よく知られたエピソードである。ガラはシュールレアリスム芸術運動を担った何人かの中心人物と人生の一時期を共にし、あるいはその人生を形づくる役割を果たした女性ではあったが、彼女の生涯と野心、欲望についてはまだよくわかっていなかったり、異論があったりする点も多い。だから多分、彼女の全貌(ぜんぼう)に迫ることに力を注いだ展覧会の開催実現が7月にまでズレ込んだのはそのためだった。「ガラ・サルバドール・ダリ――プボルの自室」と題した展覧会は10月14日まで、バルセロナのカタルーニャ美術館で開かれている。
この展覧会では、ガラを、芸術の女神とモデルという二次的な役割を喜んで果たしながらも、芸術家としての自分自身の道も切り開こうとした存在だったと描いている。
「ガラはダリのような人物の影であることに快適さを感じていたが、いつかは自分もレジェンドになることを望んでいた」。今回の展覧会を共催したガラ・サルバドール・ダリ財団の資料室長、モンテ・アグーレはそう言っている。
ガラ、本名エレナ・イバノブナ・ディアコノワは、ロシアのカザニ(訳注=ロシア連邦を構成するタタールスタン共和国の首都)で1894年に生まれた。継父は彼女に、ミハイル・レールモントフの詩を読み聞かせるなど、ロシアの偉大な作家たちのことを知る手ほどきをした。一家はモスクワに転居して快適に暮らし、知識人たちの仲間にも加わったのだが、ガラは17歳の時に結核が疑われる病にかかり、スイスのサナトリウム(結核療養所)に送られる。
彼女はそこで、本名ウジェーヌ・エミーユ・ポール・グランデル(訳注=1895~1952)というフランス人青年と出会い、恋に落ちた。その青年が作家になりたかったのかどうかははっきりしていない。だが、ガラに励まされ、彼はポール・エリュアールの名で詩集を出版することになる。今日、エリュアールはシュールレアリスム芸術運動を盛り上げた先駆けの一人として知られている。
ロシアに戻ったガラは、戦禍に疲弊した欧州のパリに行かせてほしいと両親を一心に説得した。ガラはまた、エリュアールと一緒に暮らすのを認めてほしいと彼の両親に頼み込んだ。2人は1917年に結婚。
エリュアールとともに歩むなかで、ガラはさまざまな形でシュールレアリスムの芸術運動を抱え込んでいく。彼女の肖像画を何点も描いたドイツ人画家マックス・エルンスト(訳注=1891~1976)と情愛関係を持った。フランスのシュールレアリスム文学を先導したレネ・クルベル(訳注=1900~35)やルネ・シャール(訳注=1907~88)は親しい友人だった。アメリカ人のアーティストで写真家だったマン・レイ(訳注=1890~1976)のモデルにもなった。しかし、フランス人作家のアンドレ・ブルトン(訳注=1896~1966)やスペイン人映画監督のルイス・ブニュエル(訳注=1900~83)といったシュールレアリスムの著名人との関係はしばしば緊張をはらんだものだった。
エリュアール夫妻は1929年、スペインを旅し、新進芸術家として頭角を現しつつあったサルバドール・ダリを訪ねる。そのダリに夢中になったガラは、夫と娘を捨て、カダケス(訳注=フランス国境に近い漁村)郊外の漁師小屋にいたダリのもとに走った。
ダリとガラが結ばれたのは34年。ダリは半世紀にわたり、ペンや絵筆で何百点ものガラの肖像画を描いたのである。彼女は、時に聖母のようであり、官能的でもあり、陰鬱(いんうつ)でナゾに満ちた多様な顔を持つ女性だった。
ダリは、2人の強い絆を示すように「ガラ・サルバドール・ダリ」のサインを入れた作品も残すようになる。しかし、ガラがダリの作品に手を加えるとか、仕事の構成を彼に指示するとかしたことを示す証拠はない。
ガラはタロットカード占いに凝っていた。彼女は画商への売り込みが巧みな実業家でもあり、信頼できない人物をダリから遠ざける役割も果たした。作家アナイス・ニン(訳注=フランス出身。1903~77)が書き残した39年の日記には、ダリ夫妻が芸術家たちのパトロンだったアメリカ人カレース・クロスビーの家に滞在していた時、ガラは自身やほかの人たちに役割分担を指示するなどして夫を手助けしていたとする記述がある。広報役としてのガラの才能が、見過ごされることはなかった。イタリア人の画家ジョルジョ・デ・キリコ(訳注=1888~1978)は彼女に代理人になってほしいと申し出た一人だった。
称賛を得た半面、ガラは恐れと魅惑がミックスした感情も駆り立てた。男性優位の社会にあって、彼女には女性の味方がほとんどいなかった。アメリカ人の芸術作品収集家ペギー・グッゲンハイムは回想録で、ガラのことを「賢い人」だったが、「共感するには、あまりにもわざとらしいところがあった」と書いている。
「おカネに貪欲(どんよく)だったとみる人もいた」。マドリードのコンプルテンセ大学の美術史学教授で今回の展覧会の監督者でもあるエステレリャ・デ・ディエゴは言う。だが、ガラがカネに心を動かされる女性だったとしたら、すでに地位を確立していた詩人エリュアールとの魅力に満ちたパリでの暮らしを捨てて、当時はまだ田舎暮らしだった若き画家ダリのもとへと走ったのか?デ・ディエゴは、そう問いかける。
バルセロナでの今回の展覧会は、これまでナゾだったことへの回答とともに多くの疑問も浮かび上がらせた。315点におよぶ展示品のうちいくつかは、プボルの邸宅から運び込まれ、ガラをファッションリーダーに仕立てたクリスチャン・ディオール(訳注=1905~57)のドレスなども含まれている。イタリア人デザイナー、エルザ・スキャパレッリ(訳注=1890~1973)がガラのためにこしらえたハイヒールの靴の形をした有名な帽子もある。
デ・ディエゴの話によると、ダリとガラの関係は年をとるにつれて緊張し、死と向き合うことから逃れようとあがくようになっていく。ガラは1982年に死去。プボルで埋葬された。チェス盤に似せてつくられたクリプト(crypt=地下聖堂)は、ダリがデザインしたものだ。ダリは彼女の墓標の脇に自身の墓標を立てたが、2年後、邸宅の寝室を焼き尽くす火事で負傷し、プボルから離れた。ダリは89年に死去し、遺体は郷里フィゲラスにある自分の美術館に埋葬された。
今回の展覧会は、女性には入り込む余地がほとんどなかったシュールレアリスム芸術運動の内部に、ガラがいかにして居場所を見いだしたかがわかるようになっている。(抄訳)
(Raphael Minder)©2018 The New York Times
ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから