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ゴッホ作品盗んだ男、今は盗品の回収に協力 それでも「いつも窃盗シミュレーション」

World Now 更新日: 公開日:
元泥棒オクターブ・ドュルハム氏
元泥棒オクターブ・ドュルハム氏=2024年11月13日、オランダ・アムステルダム、ユイキヨミ撮影

世界各地で絶えない美術品や文化財の盗難事件。国際刑事警察機構(インターポール)によると、2021年には調査対象74カ国で約2万3000点が盗まれたと報告されています。犯罪者たちはなぜ、人々を魅了してきた貴重な美術作品を盗み、裏社会で取引を繰り返す、という許すことのできない行為に及ぶのか。その疑問に迫ろうと、元犯罪者の人物、「オランダのルパン」と呼ばれたオクターブ・ドュルハム(52)を訪ねました。取材に彼は、アムステルダムのゴッホ美術館から絵画を盗み出し、有罪判決を受けた事件の一部始終を話しました。さらに、どうして貴重な絵を盗もうと考えたのかや自身の生い立ち、美術品盗難に対する独特の考え方も語りました。(構成・玉川透、敬称略)

オレたちがゴッホ美術館に忍び込んだのは2002年12月7日のことだ。だが、計画そのものは、その2年ほど前から動き出していた。

アムステルダムの街を何げなく歩いていたときのことだ。ゴッホ美術館の2階の窓ガラスが視界に入った。その瞬間、ピンときたんだ。あの窓から侵入できるんじゃないかって。

翌日、なに食わぬ顔で見学者のふりをして美術館に入り、2階の窓へ近づきコインを1枚取り出してたたいてみた。コンコンとガラスの音がした。たたき割れば壊せる。そう確信した。

じっくりと作戦を練った。

外から2階の窓にたどり着くには、高さ5メートル以上ある美術館の外壁を乗り越えて1階の屋根に上がらなくてはならない。ハシゴが必要だ。調べると、近くの学校から調達できそうだった。

ガラス窓を割るためのハンマーを建設資材店で買ってきた。柄の部分まで塗料スプレーで黒く塗りつぶし、型番号のプレートを外した。あとで警察に見つかっても、購入ルートを追跡しにくくしておくためだった。

次は逃走経路だ。首尾良く中に忍び込んで絵を盗んだ後、建物裏の2階の窓から逃げる作戦をたてた。事前の下見でちょうど良い旗竿が1階の屋根にあることが分かった。そこにロープを結びつけ、下まで滑り降りて逃げる。

そのために丈夫なロープと、旗竿に固定するための登山用のカラビナクリップをアウトドアショップで購入した。

窓ガラスをたたき割れば、警報が鳴ってほどなく警察が駆けつけるだろう。そういうときのために、警察無線を傍受する機器は常備している。当時オランダでは合法的にそのような機器を入手することができた。警察だけでなく、救急車や軍隊、消防、セキュリティー会社などが使う無線の周波数が載っているリスト本も売っていた。

オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館
オランダ・アムステルダムのゴッホ美術館=2024年11月13日、アムステルダム、ユイキヨミ氏撮影

仲間集めは難航

美術館は四つの警察署の間に位置し、朝方になると交通量も少なくない。オレの見立てでは、計画が成功する可能性は30%だった。そんな危ない橋を渡りたがるやつは、そうはいない。最初に声をかけた男には「おまえ正気か?」と断られた。

2人目の男も「リスクが大きすぎる」と相手にしなかった。この2人は互いに面識はなかったが、オレが絵を盗んだことを知ったら、誰かにしゃべってしまうかもしれない。しまった、と思った。

だが、仲間はどうしても必要だ。ようやく首を縦に振ったのが、3人目のヘンクだった。

最も優先すべきルールは、無事に家に帰ることだ。カネやお宝を奪うことは二の次。もし盗みが成功しなくても、無事に家に帰ってさえこられれば、チャンスはまだある。

仲間の人数は多ければいいというものではない。奪う金品とそれを何人で分けるかを秤(はかり)にかける。オレは仕事をする人数を最大3人と決めていた。

銀行強盗をやるなら、外で逃走車を用意する役などを入れて4人いてもいいが、それでも侵入するのは2人が限度だ。3人で金庫室に入ったら、万一のとき隠れるスペースがなくなるからだ。

今回はヘンクと2人だけでやると決めた。

天候も重要だ。盗みに入るのに最高なのは、人々が外に出なくなる大雨の日。警察が車で駆けつけたとしても視界が悪く、屋根に人がいるのを見つけにくい。季節は夏よりも、日が昇っている時間が短い冬場がいいのは当然だ。オレたちは準備を整えて冬を待った。

元泥棒オクターブ・ドュルハム氏
元泥棒オクターブ・ドュルハム氏(左)=2024年11月13日、オランダ・アムステルダム、ユイキヨミ撮影

真夜中に侵入、のはずが……

12月に入ったが、天気予報でしばらく雨の日は望めそうもなかった。寒さやクリスマスで人手が増えることを考えると、待つのはそろそろ限界だった。

オレたちは決行を12月7日未明と定めた。

ハシゴを盗むため、その日の午前2時ごろに目を付けておいた学校にヘンクと2人で向かった。そこからゴッホ美術館までハシゴを担いで行く。

美術館周辺のミュージアム広場は監視カメラがいくつも配置されていた。近くにアメリカ総領事館もあり、米同時多発テロ事件が起きた翌年ということもあって、警備員が入るボックスが設置されていた。決行前の数日間、オレはそのボックスに人がいつ入るかしばらく監視した。夜間はカメラが作動しているだけで、警備員は常駐していないと分かった。

だが、ハシゴを運んでいざその周辺にやって来ると、真夜中なのに犬の散歩をしている人がいたり、通行人がちらほらいたりして、美術館の外壁にハシゴをかけるタイミングがつかめない。怪しまれないようにいったんブロックを迂回して、人の目をやり過ごしているうちに時間をくってしまった。

その日の服装は2人とも黒一色だった。ジーンズの下にはジャージをはいていた。ガラスを突き破っても分厚いジーンズならまず破れることはないからだ。靴はナイキのエアフォース1。これも経験上、ガラスの破片に強いと知っていた。

手袋も上着もすべて二重にし、頭にはスキーの目出し帽と野球帽をかぶっていた。目出し帽の下には、傍受した美術館警備の無線と警察無線を聞くためのイヤホンを付けている。

手袋はいつも新品を使い、はめた後アンモニアで消毒する。警察犬が追跡しにくいように、犬の飼い主が散歩で持ち歩く消臭スプレーを衣服や持ち物に吹き付けておいた。

いつものように体毛はすべてそり上げ、その上からワセリンを塗る。DNAが現場に残る可能性をできるだけ減らすためだ。オレはスキンヘッドだから、その心配はほとんどないが、念には念を入れて体だけでなく頭皮にも塗りたくった。

辺りに人気がなくなったのを確認してから、オレたちはハシゴをかけ美術館1階の屋根によじ登った。時計の針は午前8時15分を指していた。

「ひまわり」は狙わず

美術館の開館まであと2時間を切っていたが、辺りはまだうす暗かった。

ハシゴはそのまま捨ておいて、まずオレより力の強いヘンクが持ってきたハンマーで窓ガラスをたたいた。ひびは入っても、なかなか大穴が開かない。30秒ほどでオレが代わってたたき、それからまたヘンクに交代する。最後はやっとの思いでオレが足で蹴破った。

思ったより時間がかかってしまった。ぐずぐずしてはいられない。空いたガラス窓の穴をくぐって館内に侵入すると、手分けして1枚ずつ獲物を探した。

計画を考え始めた頃、ゴッホの代表作「ひまわり」を狙おうと考えた。

打ち破られたゴッホ美術館の窓ガラスを調べる捜査員ら
2002年12月、打ち破られたゴッホ美術館の窓ガラスを調べる捜査員ら=オランダ公共放送NOSのサイトから

だが、さすがは目玉の展示品だ。下見の段階で、警備がとくに厳しく、容易にアクセスできないようもうひとつ扉で区切られていることが分かり、あきらめた。

次にゴッホの傑作「ジャガイモを食べる人々」(1885年、82センチ×114センチ)はどうかと策をめぐらせたが、こちらにも難があった。この絵ではサイズが大きすぎて、逃走経路に選んだ裏手の窓枠を通らないリスクがあった。たとえ通ったとしても用意した逃走車の後部座席に収まらない恐れもあった。

侵入してもっとも素早く手にすることができる小ぶりの絵画を、オレとヘンクでそれぞれ1枚ずつ盗むと決めた。

侵入して2階のホールを見渡すと、手頃なサイズの肖像画や風景画が壁に並んでいた。そのうちの二つをタイトルも見ず適当に選んで壁から取り外し、持ってきたカバンに入れた。

後に分かったことだが、オレたちが盗んだのは、「ヌエネンの教会を出る人々」(1884年、32.2センチ×41.5センチ)と「スヘフェニンゲンの海の眺め」(1882年、51.9センチ×36.4センチ)という絵画で、それなりに有名な作品だった。

獲物を手中にした、その時だった。耳元に忍ばせていたイヤホンから、警察が美術館に急行しているという情報が入った。窓ガラスを破壊したことで警報が鳴り、警備会社が警察に通報したに違いない。警察はオレたちが放置してきたハシゴの方に向かっていた。このまま計画通りに裏手から逃げれば、鉢合わせすることはない。

オレとヘンクは絵の入ったカバンを背負って侵入口と反対側に急いだ。窓から1階の屋根に出ると、旗竿にロープを固定し、救急隊員がやるように数メートル下に垂直に滑り降りる。最初にヘンクが飛んだ。

次はオレの番だ。両手で握りしめたロープを両足の間にからめ、勢いよく滑り降りる。ところが、絵を背負っていた分、体重が重かったからだろう。バランスを崩して、コンクリートの堅い地面に勢いよく尻餅をついてしまった。同時に背中の絵が地面にしたたかにたたきつけられ、大きな音がした。後から見たら、絵が損傷するほどの衝撃だった。

この時、野球帽がどこかに吹っ飛んだが、イヤホンの傍受無線が警察の迫っていることを告げていた。帽子を拾う余裕はなかった。あれだけ周到に準備したのだ。よもやDNAが検出されるはずはないという思いもあった。

立ち上がると、オレはヘンクを追って逃走車両が止めてあるところまで振り返りもせず走りに走った。

あの帽子が命取りになるなんて、その時は考えもしなかった。

ゴッホ美術館に侵入しようとする泥棒を映した防犯カメラの映像
2002年12月、ゴッホ美術館に侵入しようとする泥棒を映した防犯カメラの映像=オランダ公共放送NOSのサイトから

取引直前に殺された買い手

犯行に要した時間は、3分40秒だった。それを可能にしたのは、オレなりの鉄則だった。常に冷静に、仲間とうまく話し合う。スピードが出る逃走車を用意する――。

そして、何よりもまず大切なルールが、他人に危害を加えないこと。いままでオレは仕事で誰も傷つけたことがない。銃を持っていったことはないし、警察との銃撃戦なんてもってのほかだ。手荒いことをする同業者もたまにいるが、それはマヌケだ。ちょっと頭を使えば、簡単なことなのに。

ゴッホ美術館から盗んだゴッホの絵2枚は、自宅とは別に借りていたアムステルダムの家で1週間ほど寝かせておいた。特に隠しもせず、廊下に置いたまま。その後、仲間のヘンクの家に移した。

絵を額縁から取り出すとき、「スヘフェニンゲンの海の眺め」の方の隅の絵の具が少しはがれ落ちてしまった。逃走途中でオレがロープで2階の屋根から降りるときに尻もちをついて、背中の絵が地面にぶつかったせいだった。

はがれ落ちた絵の破片はトイレに流した。当時、それが貴重な絵であるという認識はなかった。

額縁は夜のうちにアムステルダムの運河に捨てた。将来この絵を買うやつが、絵を壁に飾ることはないだろうと分かっていた。好きこのんで観賞目的で盗難美術品を買うやつなんていない。それは映画や小説の世界だけの話だ。

その多くは、拘束された犯罪者が自らの刑を軽くしてもらうために司法当局との「取引材料」に使われる。この絵もおそらくそんな風に使われるのだろう、だから額なんてたいして重要じゃない。そう思っていた。

計画段階で成功する可能性は30%と考えていたが、ここまではうまくいった。次なる難題は、誰にこの絵を買ってもらうかだった。

オレは多くの裕福な犯罪者と知り合いだった。買い手の候補を探すのはさほど難しくない。ただ、接触のタイミングは考えなくてはならなかった。

美術品の盗難事件が起きると、警察は全力をあげて捜査するが、1週間たっても有力な情報が得られなければ態勢を縮小するのが常だと聞いていた。

オレはカネには困っていなかったので、ヘンクにいくらか逃走資金を渡し、ほとぼりを冷ますため2カ月ほど外国に潜伏することにした。オレたちがゴッホの絵を盗んだことは、自分たち以外に誰にもしゃべっていなかった。

犯行から6週間後、外国から戻ったオレたちは、最初の買い手候補に接触した。コル・ファン・ハウトという男で、1983年に世界的ビール会社ハイネケンのCEO誘拐事件の主犯格として、オランダでも名の知れた犯罪者だった。

彼が絵画に興味があるという話は聞いたことがなかった。それでも、以前オランダの麻薬マフィアが別の美術館から盗まれたゴッホの絵を隠し持っていて、司法当局との取引材料に使って上告を取り下げさせた例があると教えてやった。「その話は聞いたことがある」とハウトは関心を見せた。さっそく取引価格を交渉し、翌日午前1時に電話でふたたび受け渡しの詳細を決めることにした。

ところが、だ。その電話でハウトが暗殺されたと彼の手下に聞かされた。取引は流れた。

ツキがないのか。次の候補も犯罪者だったが、ハウトと同様に取引が成立する前に殺された。

最終的に絵を買い上げてくれたのは、イタリア・ナポリを拠点とする麻薬密売組織を率いるラファエレ・インペリアーレという男だった。

アムステルダムでコーヒーショップ(大麻などを扱う店の呼称)を経営していて、ヘンクが渡りをつけてくれた。オレたちの業界で「盗難美術品の大半はイタリアにある」というのはよく知られた話だった。

いったい、2枚の絵がいくらで売れたのかって?もちろん、オレたちが大金を得たのは間違いない。でも、確かな金額は今まで誰にも話していない。そして、これからも絶対にしゃべるつもりはない。

壁をよじ登って逃走

オレは、仕事を終えた仲間とはできるだけ会わないことにしている。用心に越したことはない。ヘンクには十分な分け前を渡し、もう会いに来るな、電話もするな、家にも訪ねてくるな、と言い含めて別れた。

それから1年近くして、ヘンクが警察に捕まった。オレたちの金遣いの荒さを怪しんだ警察が携帯電話に盗聴器を仕掛けていたという報道を後で知った。

オレたちが絵を売ってから6週間で、稼いだカネをすべて使い果たした。そんな報道も見たが、それは間違っている。

金遣いが荒かったのは認める。メルセデスベンツやバイク、ロレックスなど大好きな高級腕時計をいくつも買った。ヘンクはタイにひとり旅に出た。オレもニューヨークに行ったし、恋人に高級ブランド品をたくさん買ってあげた。

でも、それはもともとカネに不自由していなかったから、糸目をつけずに使っただけのことだ。ゴッホの絵を売ったカネを使い果たしたわけじゃない。

ヘンクが捕まった後、オレにも捜査の手が迫っていた。

ある日の早朝4時か5時ごろだったと思う。アムステルダムの自宅アパートに警察が踏み込んできた。警察が家に来たのはそれが3度目で、今回は本格的な家宅捜索だった。

事前にドアの前に洗濯機なんかを置いて警察が容易に入れないようにしておいたのが功を奏した。警察が機械をつかってドアをぶち破った爆音が響いた。オレは危機一髪ベランダから逃れ、建物の壁をよじ登った。新聞はのちにオレに「猿」というニックネームを付けた。

その時の服装はTシャツにジーンズ、素足に靴をはいただけで、とても寒かったのを覚えている。財布も携帯電話もない。いつも傍らに置いている警察無線を傍受する機器だけを携えて、湿って滑りやすくなっている屋根を走った。

「滑りやすいから危ないぞ!」「逃げられないぞ、止まれ!」と警察が叫んだ。

家々のベランダ越しに移動して、コンクリートの地下室に身を潜めた。5時間ほど飲まず食わずで、じっと隠れた。寒さは腕立て伏せをして紛らわせた。

朝9時ごろになって友達の家に走り、友達の母親にかくまってもらった。

警察無線に耳を澄ましていると、自宅に張り込んでいた警官が交代のために持ち場を離れることがわかった。その隙をついて自宅に戻り、板で封印していたドアをドリルでこじ開けて中に入り、パスポートや逃走に必要なものをバッグに詰めて逃げた。手持ちのカネがなかったので、近所の人に頼み込んで5000ユーロを借りた。ホテルの部屋に逃げ込み、街でスーツケースと安い衣服を買って、ブリュッセルに向かった。そこで旅行代理店に行ってスペインに逃れる算段を付けた。

その後も、友人のつてを頼って逃亡生活を続けた。だが事件から約1年後、ついにその時がきた。2003年12月、スペイン南部のリゾート地で逮捕された。

オレはヘンクと共に裁判にかけられた。オレは一貫して無罪を主張したが、控訴審で3年半の実刑判決、35万ユーロ(約5700万円)の賠償金を命じられた。逃走中にゴッホ美術館で落とした野球帽から検出されたDNAの痕跡が決め手になった。

その時、オレは裁判官に向かって、「じゃあ、賠償金を用意するために銀行強盗するよ」と言ってやった。

ゴッホ美術館に侵入したドゥルハムが落とした野球帽を回収する捜査員
2002年12月、ゴッホ美術館に侵入した泥棒が落とした野球帽を回収する捜査員=オランダ公共放送NOSのサイトから

出所後、オレとヘンクは2011年に現金輸送車を襲って、再び捕まった。成功したら、そのカネで賠償金を払おうと思っていた。

刑期を終えて釈放されても、オレはゴッホの絵の行方については口を割らなかった。ヘンクもしらを切り通した。全てを明らかにしたのは、事件の時効が成立したのがきっかけだった。

そして、行方知れずになっていたゴッホの絵が見つかったのは2016年のこと。イタリア警察に捕まったマフィアの関係者が白状し、ナポリ郊外にあるインペリアーレの母親の家のキッチンから2枚とも発見された。

14年ぶりに2枚の絵は、ゴッホ美術館に返された。

美術品が盗まれる悲しみ「理解できなかった」

なぜ、ゴッホの絵を盗もうと考えたのか。何度もこの質問をされたけれど、20年以上経った今もうまく答えられない。

カネは必要なかった。数年前に二つの金庫破りを成功させていたので、当時オレは億万長者だった。

しいていえば、そこに「チャンス」があったからだ。

同業者の中には、スリルを求めて盗みに入るやつもいる。でもオレは違う。ゴッホの時は、たまたまたたき割れそうな窓ガラスがあったのを見つけた。だから、やった。ただそれだけのことだ。

生まれながらの教師もいれば、生まれながらのサッカー選手もいる。だとすれば、オレは生まれながらの泥棒だ。

オランダ・アムステルダム西部でオレは生まれ育った。裕福な家庭で、盗みをする必要はなかったのだけれど、8歳ぐらいから万引きをしていた。

「なぜ、おまえが盗みをするのか?」と、父親からよく聞かれたが、「わからないけど、盗むのがうまいから」と答えていた。

10歳のときには犯罪について熟知し、15歳ぐらいで裏社会の仕組みを理解した。恐れることを知らない子供に成長した。

18歳のとき母親が亡くなった。父はコカイン中毒で入院した。男手ひとつでオレを養う責任を感じていたようだけど、実際その必要はなかった。その頃にはもうオレは自分の食い扶持を自分で稼げるようになっていた。

泥棒の腕はサバイバルで磨いてきた。そうやって裏社会に育てられたことを恥じてはいない。もちろん、普通の考え方でないのは分かっているけれど。

盗みは何百回とやってきたが、なかでも印象に残っているのは25歳のとき、銀行に侵入して大金を手にした仕事だ。今は亡き友人と忍び込み、一晩で230以上の貸金庫を破った。体内にアドレナリンがあふれて、自分でも知らぬ間に涙が流れ出していた。

「おまえ、泣いているのか?」と友人が驚いて尋ねた。オレは言った。「いや、興奮しているんだ。なぜかって?オレたち大金持ちになるんだぜ!」

それからすっかりはまってしまい、1カ月後に別の銀行で貸金庫破りをやった。合わせて数百万ドルを手にした。

盗みのテクニックは誰に習ったわけでもない。8年間、モノをつくる職業専門学校に通ったおかげで工具などを使った作業もお手のものだった。物作りを学ぶということは、その壊し方も学ぶということだ。

警察の流儀だけは、人から教わった。どうやって捜査するのか、どうやって犯人を捕まえるのか。実際に捕まって刑務所にも入ったけれど、そのたびにたくさん本を読んで、犯罪に関する法律を勉強した。

世間の人々は盗みのことを分かっていない。

ゴッホの事件が明らかになった後、いろんな検証番組が作られたけれど、とんちんかんなのが少なくなかった。

例えば、美術館にオレたちを手引きする人間がいて、そのおかげであんなに手際よく絵を盗み出すことができたという専門家もいた。まったくの見当違いだ。

同業者の仕事の中にはそういうケースがないわけではないが、オレに言わせれば10件中8件は内通者なんていない。小説や映画が作り出した幻想だ。

また、盗んだ美術品の買い手が先に決まっていて、その依頼を受けてオレたちが犯行に及んだという見立てをする専門家もいた。マフィアからの発注があるはずだとか、あるいはアラブの石油王の依頼を受けているのではないか、といった具合だ。それを見てオレたちは大笑いしたものだ。たしかに最終的にゴッホの絵をマフィアのボスに売ったけれど、それはまったくの偶然だったんだから。

ドュルハム氏らによって盗まれたゴッホの絵画
ドュルハム氏らによって盗まれたゴッホの絵画。イタリアのマフィアの関連宅で見つかった=2017年2月、イタリア・カポディモンテ、ロイター

「美術探偵」とタッグを組んで

新聞やテレビを見ていて、理解できないことが一つあった。ゴッホの絵が盗まれたことに対して、「オランダ国民の絵が盗まれた」と悲しみをあらわにする人たちが少なからずいたことだ。

正直、芸術作品を盗むことで人が傷つくという考え方が、当時オレは理解できなかった。自分たちのものでもない古い絵画について、なぜ人々がそんなに心を痛めるのか。

でも刑務所で罪をつぐない、年を重ねた今なら、芸術作品が盗まれたことで怒りを感じる美術愛好家がいるという事実は理解できるようになった。彼らは、オレたちとは違った考え方をする人たちなのだ。ただし、オレはいまだに、その気持ちにはなれないけれど。

出所した後、テレビ番組の企画でゴッホ美術館の館長と対面する機会があった。その人物は事件があった時の館長ではなく、新しい館長だった。それでも、みんなが「謝った方がいい」と言うので、オレは仕方なく謝った。

でも、それは本意ではなかった。事件時に館長だった人がVTRで泣いていたのを見たから、その人に対して謝っただけだ。ゴッホの絵を盗んだのは、人を泣かせるためじゃなかった。オレは人を傷つけるのが好きじゃないんだ。

ゴッホの絵を盗んだことで、オレ自身の人生も大きく変わった。

ゴッホと名がつけば、常にオレの名がついて回るようになった。刑務所にいるときに元強盗犯の男から、「おまえ、すごい泥棒なんだろ?」と声をかけられた。うなずくと、その男は仲間に紹介して回った。

刑期を終えて娑婆に出たら、オレのドキュメンタリー番組や伝記が作られた。ゴッホの絵をどうやって盗んだのか知りたいと言うから、オレはありのままを話した。「オランダのルパン」と呼ばれ、有名になった。

通りを歩けば、スマホを持って自撮りをさせてほしいと頼んでくる。自撮りをした相手の中には、ゴッホ美術館の警備員もいた。

子供たちはまるでヒーローを見るような目で、オレにこうせがむ。「オッキー、泥棒のやり方を教える本を書いてよ!」。本当にクレイジーだ。もちろん、そんなことはしない。

オレには4人の子供がいる。成長した娘のひとりは歌が上手で、人気歌手として活躍している。彼女のマネジャー兼運転手みたいな仕事をしたこともある。

ひょんなことから、同じアムステルダムに住む「美術探偵」のアルテュール・ブラントという男と知り合いになった。彼は盗まれた美術品を取り戻すため、盗品を所有している可能性がある裏社会の住人たちとの「交渉役」のような仕事をしている。

オレは彼に頼まれて犯罪者の心理や手口をアドバイスし、地下組織とのパイプ役として協力するようになった。

もうずっと盗みはしていない。でも、頭の中ではいつも盗みのことを考えている。街を歩いていて、ある建物を見れば、あそこから侵入できるなとか、あの美術館ならここから逃げれば捕まらないとか。実際にはやらないけれど、頭の中でシミュレーションしてしまう自分がいる。

救いようのない話だが、やはりオレは生まれながらの泥棒なのだ。

元泥棒オクターブ・ドュルハム氏と「美術探偵」アルテュール・ブラント氏
元泥棒オクターブ・ドュルハム氏(左)と「美術探偵」アルテュール・ブラント=2024年11月13日、オランダ・アムステルダム、ユイキヨミ氏撮影

筆者は思う

貴重な美術品はなぜ盗まれ、裏社会で取引されるのか。今回取材した元泥棒や捜査関係者らの証言から、単なるカネ目当てではなく、スリルや自己顕示欲を満たすためだったり、刑期の短縮だったり目的が多岐にわたっていることが見えてきました。

一方で、犯罪者たちの多くは芸術的な価値にほとんど関心がなく、ときに作品を粗暴に扱い、邪魔になれば躊躇なく焼き捨てます。それによって多くの人の作品を目にする機会が奪われ、画家の才能や努力が踏みにじられることこそ、この犯罪の恐ろしさなのだと思い知らされました。