野沢直子さんと聞いて「知っている!」となる方も、そうでない方も、さまざまいらっしゃるかもしれませんね。「元祖、海外移住タレント」としても知られる、お笑いタレントの野沢直子さんは、普段はサンフランシスコ在住です。
1983年にデビュー後、パンクなファッションや型破りのトークで人気を博し、瞬く間にフジテレビの「夢で逢えたら」や「笑っていいとも!」をはじめとした数々のレギュラー番組に出演するようになります。人気絶頂の1991年に突然芸能活動を休止してニューヨークに渡って以来、在米生活は早くも30年以上。その間、結婚、子育て、初めてのお孫さんも誕生しました。
そして2024年1月には離婚を発表。つい数週間前にカリフォルニア州で離婚が正式に成立したばかりです。(アメリカで離婚が成立するのはとにかく時間がかかります)
還暦を過ぎ、老後についても考える現在。華やかな芸能界で活躍してきた彼女ですが、我々同様、悩みもあれば、思いもよらない事態が発生することもあって、全てが順風満帆というわけにはいきません。
筆者が所属する北カリフォルニア・ジャパンソサエティーと北加日本商工会議所との共催で、憂いも悩みも参加者と笑い飛ばすトークイベントを6月上旬に開催しました。たくましく、美しく、そしてしなやかに人生の第3ラウンドを生きる野沢さんにお話を伺いました。
フレッシュトーク炸裂で、予定時間を大幅にオーバーしたイベントでの内容を一部「切り取り」してご紹介します。(敬称略)
シリアルアントレプレナーの父親がつくった複数の家庭
野沢直子:父親は「俺は一発当ててやる!」が口癖で、事業を興してはつぶし、興しては潰しだったんだけど、例えば、健康食品なんて誰もまだ言っていなかった頃、いち早く健康ブームに着目して、あるとき朝鮮人参の顆粒ドリンクを作ったのね。試飲は家族の役目。小学生の2年生なのに朝から苦いの飲んで、精をつけて小学校に行ってたのよ(笑)
でも全然売れなくて、当然会社は潰れるよね。家は借金を背負って、小学4年生か5年生くらいのときに父親行方不明になっちゃって。半年くらいたってよれよれになって帰ってきたと思ったら、競馬の予想業の会社をやることを思い立ったのね。当然インターネットもない時代で、電話で会員の人に予想を伝えるというビジネスモデル。共同馬主の企業も立ち上げて、所有している馬が有馬記念で優勝した年もあったりして。その会社は今でもあります。
女性関係もすごくって、私が高校のくらいのときには競馬の予想会社が当たってお金持ちになってたんだけど、年末になると必ず帰ってこない。母親に聞いても、「東南アジアのどこかじゃない?多分よその国に家庭があると思うのよ」って笑いながら言っていたのね。
野沢直子:それだけではないのよ。まだあって、父親が亡くなって葬儀で急いで帰国して空港に到着してLINEをみたら、弟からで、「姉ちゃん、もう一人いたよ。タイにもう一人、名前はルンルン」。ウソでしょー!そんなことってある!?朝の4時に羽田で、一人でもう大爆笑。
「金スマ」(2017年放送のTBS系「中居正広の金スマスペシャル」)で妹さんに会いに行きませんか、という企画が浮上し、テレビだったら会えるかもな、って思って、タイ人ハーフの妹ルンルンにも彼女のお母さんにも会いました。母親の方が「もう一人いるんじゃない?多分男の子。XXさんって女性と付き合っていたでしょう、その人との間にも子供がいたはずよ」って。そちらとは会ってないです(笑)
人気者になるも、共演者との才能の差に悩んだ日々
野沢直子:今では考えられないけど、オンエアされるのは10本ぐらいなのに作家の方が60本くらいコントを書いていて、会議で自分のやりたいコントを選ばせてくれてたのね。技術、音声なんかは「オレたちひょうきん族」のスタッフで、めったなことでは笑わなくて、台本通りにやっても笑いが起きないし、オンエアのときに「笑い」のサウンドを足してくれるわけでもないし、オチを必死に考えるわけ。いつも違うアドリブも入れないと笑ってくれないから。
ダウンタウンもウッチャンナンチャンも清水ミチコもものすごく面白くて、同じ土俵にいても勝ち目がないと思っちゃって。出演者全員そろそろ冠番組を持つか、みたいになってきていた頃。「私は、自分で番組を持ちたいからやっていたのかな?そうじゃないよな」って自問自答するようになって。よく考えたらそんなオファーは来てなかったんだけど(笑)自分のどこが面白いのか分からなくなってしまって。下積みを通らず売れたから、全然引き出しがない。そういう「修行の時期」がないのがよくないと思っちゃった。
その頃、ドラマを見ると(登場人物は)困っているときはニューヨークに行くじゃないですか。わたしもニューヨークだと思って(笑)。それが、28歳のとき。芸能界で活動していたのは実質7年だけなのよね。
単身渡ったアメリカで築いた家庭、そして離婚
野沢直子:夫婦仲はよかったと思うんですけど、3年前に急に元夫が出ていってしまって、結局、離婚することになりました。アメリカで離婚するのは大変ですよね。本当に2週間くらい前ですよ、成立したの。3年くらいかかっちゃって。
英語は不自由なく話せるけど、法律用語は難しいから子供たちに見てもらったりして(笑)彼らも意味は分かるけど、どう書いていいのか分からない。カリフォルニア州では扶養手当は収入が多い方が少ない方に払うのが原則で、その支払いを避けるために書類を作成するのも弁護士に頼んだら安くて2万ドル(約315万円)とか言われて。電話でちょっと聞いても200ドル(約3万円)。
弁護士を雇うお金がなくて、家庭裁判所のヘルプセンターだと無料でやってくれるというのを誰かに教えてもらって行くことにしたの。先着30組しかみてくれないから、朝の6時からオープンする8時まで外で長蛇の列に並んで待っていたらハワイに行ったみたいに日焼けしちゃうし。「どこにバケーションに行ってたの?」って聞かれて、「裁判所焼け」(笑)。ようやく自分の番がきても、「この人弁護士!?」ってくらい態度が悪くて。そして、ようやく離婚成立!(盛大な拍手)
60歳過ぎたら、自分のために生きない?
野沢直子:第1ラウンドは、自分が何をやりたいか、どんな仕事をしたいか、自分がどんな人間かを模索する時期。第2ラウンドは、仕事が忙しかったり、結婚、子育てとかがあったり。子育てしなかったとしても家庭を持つ人もいるだろうし、そういう人生の真ん中の時期があって、第3ラウンドが60歳過ぎ。人生100年くらいと言われている中で、60歳だとしてもあと20年、30年ってあるんですよ、結構長くないですか?
第3ラウンドは、「この先はもう自分のために生きない?」ってときですよね。それまでは家庭を築いたり、30代、40代は、会社でバリバリ働いていたり、周囲に頼りにされる時期、そういう誰かに貢献する時代がずっとあると思うんですけど、でも60歳過ぎたらもう自分のための人生でいいよね、ってことですよね。
ご飯を作りたくないというときは、トレーダージョー(オーガニック系の食料品スーパーマーケット)の冷凍食品でもいいじゃないですか。それまでは人間関係とか仕事とか会いたくなくても会わないといけないとかあったかもしれないけど、これからは会いたい人だけに会う、好きな人とだけ遊んでても、いいんじゃないかなって。
「暮らすなら愛情が持てる人と」
野沢直子:それは結婚も同じで、配偶者とは、一緒にいたくないのにしがらみでいるとか、我慢しているとか、情があってそんなに簡単に別れられないとかあるじゃないですか。でも、もしも一緒に住んでいる人と居るのが「もう我慢」という境地で、愛情が持てないようだったら「我慢が美徳」などと言っているのはやめて、離婚しよう!みんな離婚しよう!そういうときは離婚しよう!(直子さんが動き回って叫ぶと会場がどっと沸きました)
野沢直子:生活していかなきゃいけないんだけど、ぶっちゃけ貯金がなく、クレジットカードで生活費や固定資産税や光熱費を払っていたらカードの借金がものすごくかさんじゃって。「じゃあ、どうするか、バイトするか」ってなって、なんとアメリカでバイトを始めました!
気がついてみたら芸能界の仕事しかしたことがなくて、高校のときのファミレス以来。とりあえずやんなきゃ!って最初にやった仕事が フードデリバリーサービスのドアダッシュ(笑)初めての芸能界以外のバイトも楽しんでます。
年齢を重ねても消えない「エンターテインメントへの情熱」
野沢直子:長く生きていくと、肩の力が抜けてきて、昔だったら「これをやりたい!」と思ったら「結果を出さないといけない」というのがまずあって、でも年をとってくると、「やっているだけでもいいじゃないか」という前提があります。
結果を出すのが目的ではなく、自分の好きなことをやる。エンターテインメントに対する情熱がすごく強くって、それは絶対消えることはないです。
今日のイベントなんかにしても、アメリカでのライブにしても、どんなカタチであっても、エンターテインメントを辞めるってことはないだろうな、って思ってます。演技のチャレンジも諦めてしまったら一生後悔するけれども、その道を開こうと思って何か行動を起こしていることだけでも、自分の中で8割くらい満たされているところはあると思う。