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――和毅さんはメキシコから日本に「復帰」しても対戦相手が決まらず、3年余り待った念願の世界戦でした
今回の試合は、すごい思いがあったと思うよ。そら、(あれだけ待たされたら)くさるよ、普通の選手やったら。もう、くさって、ブクーって太って、「おい、世界戦決まるぞ」ってなってから動く。それやったら負けてた。信じて、信じて、コンディションつくって、いつでもスタンバイしてたから。練習せえへんってことなかったから。和毅やからできた。簡単にはできないよ。
――リングに「乱入」して世界チャンピオンに対戦を「直訴」したこともありました
打ち合わせでもあったんかと思ったら、一緒にいた(長男の)興毅も知らんかったらしいな。あんなことする子じゃないのにな。焦ってたんやろ。27歳と言えば、もうベテランに達してるくらい。和毅の場合、チャンピオンになって終わりじゃないから。なってから亀田和毅をつくらなあかんわけやから。早くチャンピオンになって、3年くらい防衛して……って、プランを色々と考えてるのよ。だから焦りが来る。
■一番の泣き虫だった末っ子
――和毅さんのストイックな性格は子どもの時からですか?
子どもの時は一番の泣き虫。練習10回したら8回は泣いてた。テレビでも泣いてる映像しか残ってないですよ。ずうっと泣きながら練習してるのが和毅。卓球の(福原)愛ちゃんみたいなもん。なんで泣いてるかって言うと、怖いとかじゃなくて、悔しいから泣いてる。自分ができひんから泣いてる。和毅もそうやと思う。
(当時は)おれは世界チャンピオンを育てたことも、自分がなった経験もないから、むちゃくちゃな練習も、可哀想な練習もあったよ。でも、3人のうちやりこなすのは和毅や。「おれ、できるで!」「おお、すごいな、お前!」って。お兄ちゃんらは、弟がやったら、自分らもやらな仕方がない。
――15歳でメキシコに行かせたのも、和毅さんだったからこそ?
興毅やったら100%行かせてないな。和毅の時は、俺もある程度、道筋は分かってたから、こっちの方がいいなって。
環境に合うか合わへんかって言うたら、ほんまは(次男の)大毅やと思う。でも、大毅は親の目が見えへんとこ行ったら、ちょっと練習せえへんやろ(笑)。和毅はどこへ行っても性格が完璧やから。自分がやらなあかんって分かってる。すごいプロ意識もってる子やで。野球のイチローに近い。練習終わって「どっか遊びに行こう」ってなっても、「明日、僕は練習です」って帰るやろ。
普通は世界チャンピオンになったら、コントロール効かんようなってくるのよ。和毅はそれができる。いま、俺は大阪やけど、和毅は東京で、ほとんど自分中心でやってる。
■「あほか」と言われても、自信あった
――和毅さんがまだ中学生だった時、興毅さんが微妙な判定勝ちで3兄弟初の世界王者になり、亀田家に対するバッシングに火がつきました。北京五輪をめざしていた和毅さんは、日本でアマチュアボクサーになるのを断念してメキシコへ行きました
和毅は強かったから、俺は東京の日本ボクシング連盟にも頼みに行った。「ぜひ、北京五輪はお願いします」と。けど、俺はその時は知らんかったけど、アマはプロなんか大嫌いなんや。「もういいです、早くプロへ行ったらどうですか」って、そんな言い方でしたよ。
ちょんまげ(注:和毅さんが子どもの時からしていた弁髪風の髪形)を切れって言われたのも事実やけど、あんなんは後付けで、何やかんや言うんよ。あら探しみたいに。これはオリンピックは無理やなって思った。それでメキシコに行かせた。何も分からんまま。大阪時代に知り合って、その後もずっとつながってるルベン・リラというトレーナーのジムで練習させてもらおうと。
――亀田家へのバッシングで、和毅さんが中学校にほとんど行ってなかったことなど、史郎さんの教育方針も当時は非難されました
俺は学校に行くなとは言ってない。「練習やってから行けよ」って。本人が決めて、朝、練習して、しんどかったら寝てる。でも怒ったことない。
そもそも、真剣に学校行ってるのなんか、誰がいる?だらだら給食を食べて、しゃべってるんやったら、練習した方が身になるやろ。こっちは世界チャンピオンめざしてるんやから。1時間でも大事やから。
そら、義務教育やから、普通で言うたら考えられんことや。「大丈夫?あそこの家族」「あほちゃうか」って、思われてたよ。でも、おれは自信があったから。世界チャンピオンになって、ちゃんとお金稼げるように、立派に育てるって。
興毅が世界チャンピオンなった時、中学の先生は「うれしい、鼻が高い」って言ってくれた。いつでも理解者がいるわけや。だから周りには感謝する。
■「怖いお父さん」テレビがつくったイメージ
――「怖いお父さん」というイメージですが、とても子どもを可愛がっていますね
俺らはずっと「亀田家」できたけど、テレビ局も「この家族はこういうイメージで」っていうのを考えるんですよ。(漫画「巨人の星」の)星飛雄馬のお父さんみたいに、怖い親父で行こうっていうのは決まってるんやから。だから、俺の顔はいつも怖いように映るだけ。やっぱ、子どもはかわいいやんか。
特に興毅はずっと一緒におったな。どこでも連れて行った。(解体業の仕事をしていた)現場にも車に乗せて行って、仕事の間、待っとかせて。ひますぎて車にアンパンマンの絵描いてたよ、釘で。「お前、何してんねん!」って(笑)。
子どもを怒るのはほとんどボクシングの時だけ。普段は友だちみたい。特に興毅は何かあったらすぐ電話してくるし。和毅はメキシコ行ったときにはおれには絶対に電話はしてこない。もう自分が何するか分かってるから。
――解体現場では子どもたちも一緒に、銅線を集めたりしていたそうですね
お金の重みを教えるため。「こんだけやってこんなしかならんよ、たいへんやで」って。借りてる置き場で、分別もさせたし。「何でしてるか分かる?これをしてくれたら、安くついて助かるの。一緒くたで処分したらお金が高いやろ、そのために分けてほしいのよ」って、全部説明する。そこで銅線が出てくる。「これも銭になんねん、むいたら」。とか言うて、やらせて。「お金は簡単に入ってこないよ」って。和毅は覚えてないと思うけど、興毅はよく覚えてるよ。
■バッシング、家族の絆深まった
――いまはこのジムで子どもにボクシングを教えています
俺は子どもら大好きやからね。やっぱり教える時は怖いですよ、いまの子どもに対しても。それはやっぱり強くなってほしいから。リングでふざけてた子どもを帰したこともあるよ。「ちびっ子でもリングに上がれるのはこのジムだけやぞ。リングをもっと大事に考えろ」って。
いまのお父さんお母さんは家で子どもを怒られへんでしょ。だから、親の方が俺にそういうポジションを求めてるのが伝わってくるんです。だからと言って3兄弟に教えたようには、さすがにちょっと……。何人かのお父さんには「お願いします」と言われたけど、そんなことしたら子どもは泣いて、ジムに行きたくなくなってしまう。家族なら怒った後にはフォローもあるわけや。でもその子らは俺がフォローできひんやん。
――子どもたちのためにジムを始めたのですか
このジムは娘の姫月(ひめき)のために始めた。3兄弟を世界チャンピオンにして、後は何をするかというと、娘がいてる。娘はボクシングをしたことなかったけど、やっぱり3兄弟が偉大すぎるから、娘も何か決めてやらんと。そこで、ある程度のポジションまで俺が持って行けるのは、やっぱりボクシングしかないと思って。
特に女子ボクシングは、男に比べたらまだレベルが高くないので、チャンスと言えばチャンスや。いま海外でプロ3戦。何で海外かって言うと、やっぱりお兄ちゃん3人が世界チャンピオンやから、妹も強くて当たり前と見られる。けど、俺から見たら、まだそこまで達してない。だから海外でいっぱい経験させたい。
――和毅さんはシルセさんと結婚し、メキシコ人の家族もできて、史郎さんの世界も広がりましたね
シルセの家族は、素晴らしい家族。向こうのお父さんお母さんも日本に来たし、俺も何度も行ってる。姫月のデビュー戦もメキシコだった。和毅はもうメキシコ人みたいにスペイン語がしゃべれる。メキシコ人の通訳に「和毅のスペイン語どう?」って聞いたら、「発音は完璧」って。日本語もしゃべられへんのになあ(笑)。学校も行ってないのに、すごいで。
大毅も英語を勉強してる。何を目標にしてやってるんか、俺は知らんけど(笑)。俺もしゃべれたらと思うよ。和毅にも言われる。「親父が言葉覚えたら交渉も早いんやから」って。
人生はずっと勉強やから。どこでどういう場面が来るか分からんから。神さまがチャンスをくれてると思う。和毅もちゃんと練習してるから神さまが応援してくれてる。(世界戦を)3年間待たされたけど、そこが時期やったんじゃないかな。2年間でも良かったんやけど、試合が決まりかけて決まらんかったのは、ここが一番ええタイミングやったということ。
バッシングもあったけど、それはそれで神さまが試練を与えてくれたと思う。それがなかったら気持ちもここまでなってなかったし、家族の絆ももっと深まったから。俺ら犯罪者なみやったからね。家の上を(マスコミの)ヘリコプターが飛んでたよ。でも、あれはあれで良かった。良くも悪くも、あれで名前を知った人もおるし。人生、いいことばっかりやないやんか。でも、ああいうことがあるから今があるわけやし。