今年5月、学生時代に暮らしたエチオピア西部の村を17年ぶりに再訪し、そのことをGLOBE7月号で記事にした。村はオロミヤ州にあり、住民のほとんどはオロモ人だ。
アフリカ大陸で2番目に多い人口9410万のエチオピアは、約80の民族が暮らす多民族国家だ。民族自治制を採用していて、主な民族ごとに分かれた9つの州がある。2007年の国勢調査によると、最大の民族はオロモで、人口の34%を占める。だが、1991年に成立した現体制の中枢を担ったのは、人口の6%のティグライという民族だ。
米ニューヨークに本拠を置く国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」によると、昨年11月以降、オロモが暮らすオロミヤ州各地で政府に対する抗議デモが相次ぎ、政府の治安部隊が発砲するなどして、400人以上の市民が死亡し、数万人が逮捕されたという。きっかけは、首都アディスアベバの拡張計画に伴い、周辺のオロモ人たちが立ち退きを迫られたことだという。
エチオピアを再訪する前に、東京でオロモ人の男性に会った。学生時代に覚えたオロモ語を学び直したいと考え、人づてに紹介してもらったのだ。彼は最初、自分の身の上話をしたがらなかった。言葉を習いながら少しずつ教えてくれたのは、教師を経て、ジャーナリストをしていたこと。日本に来て難民申請していることだった。昨年11月以降、故郷近くの町でも多くの住民が殺害され、身内も投獄されたと言う。「オロモ人は迫害され続けている。アディスアベバではオロモ語を大っぴらに話さない方がいい」とアドバイスされた。
だが、ぼくが再訪した村は、拍子抜けするほど平穏だった。
村は昨年末に抗議デモと治安部隊の間で激しい衝突があったとされる町から、約350キロ離れている。ぼくが訪れた5月中旬、抗議デモは全国的にもいったん下火になっていた。村の人たちの多くは「このあたりは平和だ。何の問題もない」と口々に話した。抗議デモについて「外国の勢力が、民族間の対立をあおってこの国を分断しようとしているんだ」と話す男性もいた。
オロモの友人たちは、昔も今も、オロモであることに誇りを持っている。再訪する前は、会えば抗議デモに共感する話も聞けるのではないかと考えていた。だが、少なくともぼくの友人たちの間で、デモへの共感を明言する人はいなかった。
オロモの立場は微妙だ。人口では最多だが、国の支配層は常にほかの民族が占めてきた。1974年に退位したハイレセラシエ1世まで続くソロモン王朝は人口の27%を占めるアムハラという民族で、エチオピアの公用語は今もアムハラ語だ。ぼくの友人のオロモ人たちも、村ではオロモ語を話すが、町に出るとアムハラ語を話す。日本で言えば、都会に出て方言を隠す地方出身者のような雰囲気がある。
だが、今回17年ぶりに再訪すると、町にオロモ語の看板が増えていると感じた。以前は店の看板もアムハラ語が多かったが、現体制が掲げている「民族自治」が広がっているのだろうと感じた。オロミヤ州にも別の民族、たとえばアムハラ人が住んでいる。ぼくの友人のアムハラ人の1人は、オロモ語を話せないために、希望していた公務員に採用されず、別の州に移り住んでいた。
アディスアベバでは、開発政策を担当する首相顧問のアルケベ・オクバイにインタビューした際、こう尋ねた。「オロモの抗議デモは、開発の負の側面ではないか」。彼の答えはこうだった。「背景にあるのは若者の失業と不満だ。だからこそ我々は、産業を振興して雇用を増やそうとしている。ただ、コミュニケーションの取り方に足りない点があったかもしれない」
エチオピアを後にした後、エジプトのカイロを訪ねた。国連難民高等弁務官事務所(UNHCRR)によると、エジプトには6916人のエチオピア人が難民として暮らしている。
カイロの中心部から十数キロ離れたところに、オロモ人の難民が集まって暮らす町がある。地下鉄とミニバスを乗り継いで訪ねると、雑貨店や食堂の店先にオロモ語の看板が掲げられ、通りを行く人たちがオロモ語であいさつを交わしていた。
オロモ人難民の男性、ボル・バラカ(38)に会った。本人の説明によると、もとはエチオピアで教師をしながら、小説を書いていた。だが、作品が反政府的な内容だったとして投獄。釈放された後に隣国のジブチに逃げ、その後エリトリアに移り、2012年から14年にかけて「オロモ解放戦線(OLF)」のスポークスパーソンをしていたという。OLFは、エチオピア政府が「テロ組織」と名指しする団体だ。だが彼は、オロモの「民族自決」を強調するOLFとたもとを分かってカイロに移り住み、難民認定を受けたという。
「オロミヤ州が南スーダンのように分離独立することを私は望んでいない。私が望むのは、エチオピアという国の中で、民主主義が実現し、人権が守られることだ。今のエチオピアでは、自由な発言は許されない」と彼は言った。
エチオピアは5年に1度、総選挙を実施している。2005年の総選挙では、野党が3割の議席を獲得した。だがその後、野党の指導者やジャーナリストが相次いで拘束されたと国際人権団体は指摘している。2015年5月の総選挙では、与党とその協力勢力が全546議席を独占した。「全議席を与党勢力が独占するような選挙を、民主主義と呼べるわけがない」とボルは批判する。
エチオピアやエジプトで出会ったオロモの友人たちとは、今もフェイスブックでつながっている。カイロに暮らすオロモ人難民たちは、エチオピア国内の抗議デモの様子や、エチオピア政府に殺害されたという犠牲者の写真などを、米国を拠点に情報発信を続けるオロモ人男性のサイトなどから頻繁に転載している。リオ五輪の銀メダリストを称賛する投稿も相次いだ。一方で、エチオピアに暮らすオロモの友人たちは、抗議デモや銀メダリストのポーズについて、今も無言を貫いている。(文中敬称略)