今年4月、大阪地裁は「死刑の執行を当日に告知するのは憲法違反」だとして国に慰謝料を求めていた死刑囚2人の原告の訴えを退け、「死刑確定者が執行時期を事前に知る権利は保障されていない」「当日告知には一定の合理性がある」と判断しました。その後、原告側は訴えを退けた一審の大阪地裁の判決を不服だとして大阪高裁に控訴しています。
日本では死刑囚への死刑執行の告知について、1970年代ごろまでは前日までに告知がされていました。ところが事前告知をしたことにより死刑囚が自殺をしたことがあったため、近年告知は「当日」行われることになりました。
現在、死刑が告知されるのは当日の「執行の1、2時間前」だということについて、日本のテレビ局が道行く人たちに意見を聞いたところ「それだと心の準備ができない」「死刑囚にも家族がいるから、家族の対面や何かもあるので、2時間前は良くないと思う」という意見がある一方で、「2時間はちょうど良いかもしれない。心の準備ができないままで終わったほうが本人にとっては良いかもしれない」など様々な意見が聞かれました。
日本では「死刑そのもの」について「絶対に反対」だと考える人はそう多くありません。内閣府は5年に1度死刑制度について世論調査を実施していますが、前回2019年の調査では、2004年以降4回連続で「死刑という制度があることについて、やむを得ないと思う」という回答が8割を超えました。明確に「廃止すべき」だと答えた人は9%にすぎませんでした。
死刑とは、「国家が人の命を奪う」こと
日本では、死刑制度があることが犯罪の抑止力になっていると考える人も少なくありません。
前述の内閣府の調査によると58.3%の人が、死刑がなくなると凶悪犯罪が「増える」と答えています。しかし国連を始め様々な機関の調査によると「死刑で犯罪は防げない」、つまり「死刑制度があることが凶悪犯罪への抑止力にはなっていない」という結果が出ています。
たとえばアメリカには「死刑のある州」と「死刑のない州」がありますが、死刑のある地域のほうが、殺人の発生率が高いことが分かっています。欧州連合(EU)の国々でも、死刑の廃止後に犯罪率は上がっていません。
ドイツ連邦共和国(統一前は西ドイツ)では第2次世界大戦後、ドイツ基本法が施行された1949年に死刑が廃止されました。現在「死刑がないこと」がドイツの社会の「倫理のベース」になっています。
「国家というものはいかなる場合でも人の命を奪ってはいけない」というのがドイツ社会の共通認識です。そして忘れてはならないのは、どの国の司法も間違いを犯すことです。冤罪の人が死刑判決を受け、刑が執行されてしまえば、取り返しのつかないことになってしまいます。
ドイツでは「死刑」というと「ナチスや旧東ドイツで、国家が反体制派の人を殺した」時代のことを思い出す人が多いです。
東ドイツには1987年まで死刑がありました。Stasi(シュタージ、東ドイツの秘密警察であった「国家保安省」)の大尉であったWerner Teske氏が西側への逃亡を企てたとして罪に問われ、同氏に対して1981年に死刑が執行されています。これが東ドイツの「最後の死刑」です。
現在のドイツでは「死刑制度があると、国家権力が好き勝手に都合の悪い人を処刑してしまう」というイメージがあることは否めません。
「遺族」にスポットが当たる日本
日本では凶悪事件の被害者の「遺族」の心情を考慮して「死刑はやむを得ない」と考える人が少なくありません。内閣府の調査では、56.6%が凶悪犯罪を犯した人について「(死刑がないと)被害者や家族の気持ちがおさまらない」と答えています。
ドイツでは、「殺人犯を死刑にしても、犠牲者は戻らない」「それよりも犯罪の犠牲となった人の残された家族(遺族)がケアを受けやすいようにすることが大事」と考えられています。「極刑になることで、遺族は犯罪者に罪を償ってほしいと思っている」という意見について、日本では多くの人が納得しますが、ドイツではそれが「報復的な考え方」だとみなされているのです。
凶悪犯罪の被害者になった遺族の苦しみは想像を絶するものだと思う一方で、筆者は死刑制度が語られる際、「遺族」という言葉が頻繁に登場することについて複雑な気持ちになることがあります。
それというのも「殺人事件の被害者となった人が独身で、子供がなく、両親が既に死亡しており、兄弟がいない場合」、その人に一般でいう「遺族」はいないからです。
でも「家族がいない人の命」は「家族がいる人の命」と同等に扱われるべきだと考えます。遺族がつらい思いをしているのは心情としては理解できるのですが、死刑制度を語る時に「遺族」を中心に考えると、間違いなく「身寄りのいない人」にスポットが当たらなくなってしまいます。
多様な生き方が増えている今の時代は「生涯独身の人」も少なくないですし、「子供を持たない人」も増えています。そういったなかで「遺族の気持ち」を判断基準に死刑の是非について考えると、ある種の矛盾が生じるのではないかと考えます。
「人権」の考え方にも隔たり
「死刑」に対する考え方について、日本とEUの国々では大きな隔たりがあります。欧州の人が「どんな人にも人権がある」「人は生まれてから死ぬまで人権がある」「人権は国家によって命を奪われるべきではない」と考えるのに対し、日本では「人を殺した犯罪者に人権などない」「そもそも死刑囚に人権などあるのか」といった声が目立ちます。
ただ日本にも死刑に反対する動きはあり、日本弁護士連合会が長年にわたり「死刑制度の廃止」を目指しています。
基本的にドイツやフランスなどのEUの国々では「死刑は野蛮」というのが共通認識です。
でも日本の人からこう反論されることがあります。「日本の警察は事件の現場で銃を発砲することに慎重。日本で犯罪者は適正な裁判を受けた上で死刑になる。でもフランスでは警察がすぐに現場で犯人を射殺してしまうじゃないか。それも野蛮だと思う」――確かにこれにも一理あります。
2022年には、パリ郊外のシャルルドゴール空港で警察に立ち退きを命じられたホームレスがナイフを振り回し、警察官に射殺されてしまいました。昨年パリ郊外で交通検問を拒否した17歳の少年が警察に射殺された事件も記憶に新しいです。死刑がないからといって、その国の行政(例えば警察)が市民の命を大事にしているかというと、残念ながらそうとは言い切れないのです。当然、それは改善されるべきことです。
「死刑制度の廃止」という世界の流れ
世界では死刑をやめる国が増えています。欧州では1980年代から1990年代にかけてフランス、オランダ、ベルギー、イギリスが死刑を廃止し、2000年以降は南米やアフリカで死刑を廃止する国が増えました。
現在は世界の140カ国で死刑が廃止されています。EUに関しては全ての国で死刑制度が廃止されており、「EUに加盟するためには、死刑制度を廃止することが条件」です。
EUは毎年10月10日の「欧州および世界の死刑廃止デー」に合わせて日本語でも死刑に反対する共同声明を出しています。日本で死刑が執行されると、日本にあるドイツなどの欧州の大使館がSNSに「死刑に反対の立場である」旨の投稿をし、それが「炎上」することも珍しくありません。
「死刑制度」に関する溝はなかなか埋まりそうにありません。ただ「どの人の命も大事にしなければいけない」という考えを基本とすると、必ず「死刑反対」に行きつくはずだと筆者は考えます。