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「北」も「南」もいやだった 死刑執行された脱北者、半世紀後の無罪

ニューヨークタイムズ 世界の話題 更新日: 公開日:
板門店の軍事停戦委員会会議場前で歩哨に立つ韓国軍兵士=2017年4月19日、Lam Yik Fei/©2018 The New York Times

北朝鮮から韓国に逃れてきた3万人以上の脱北者の中で、世間の関心を最も集め、かつ悲劇的な最期を遂げた一人に李穂根(イスグン)がいる。その死から間もなく半世紀。李の物語が劇的な展開でよみがえった。

1967年、李は「英雄」として韓国に迎えられた。北朝鮮との境界線にある板門店で国連軍司令部の米軍兵士の助力を得て、おびただしい数の銃弾が飛び交う中を韓国側に逃げてきたのだった。だが、それから2年後、李は偽造パスポートで韓国を出国しようとして捕まり、「北のスパイ」として告発された。激怒した韓国民は、彼の人形に火をつけて焼いた。彼はすみやかに有罪を宣告され、絞首刑に処された。

それから約半世紀。2018年10月11日、ソウルの中央地裁は李を無罪とする判定を下した。すなわち、李はねつ造されたスパイ罪と拷問による自白をもとに不当に処刑された、と。
裁判長キム・テオプは、判決文で「彼は弁護の権利を行使する機会さえ与えられないまま、偽の脱北者として非難された」と述べるとともに、「独裁政権下で犯された過ちに対し、被告とその遺族に許しを乞う時が来た」と告げた。

死後に出された今回の無罪判決は、1960年代から80年代の軍事独裁政権下で行われた脱北者への拷問やスパイのねつ造事件に対する事実究明の中で実現した。拷問やねつ造は、脱北者たちの口封じと北朝鮮の脅威をあおるため、当時はしばしば行われていた。 共産主主義と闘う、という名のもとに韓国で行われていた多くの殺人や人権抑圧。その真相を解明する努力は、その後のリベラルな政権で進められたが、2008年に保守政権が誕生して中断された。17年に文在寅(ムンジェイン)が大領領に選ばれてリベラル政権が復活すると、犠牲者の家族たちは真相究明に再び期待をかけた。

李が脱北したのは1967年3月22日だった。南北の境界線にある、いわゆる「停戦村」と呼ばれた板門店を越えて逃げてきた。当時、板門店は軍の監視の下、南北双方の人びとが混在していた中立地帯の一つだった。李は当時44歳、北朝鮮の朝鮮中央通信の副社長だった。板門店で行われた北朝鮮と米国主導の国連軍司令部の会談取材のため居合わせた。そこで李は、ひそかに米軍幹部に脱出の協力を求めたのだった。
米軍側が承諾すると、李は国連軍司令部の車に駆け込んだ。2人の北側兵士が境界線を越え、李を車から引きずり出そうとした。

「あの時、私はとっさにアメフトのタックルをかけ、2人を車からたたき出した」。現場にいた米軍大尉のトーマス・F・ベアは李の脱北直後にそう語った。
国連軍司令部の車はセダン。軍曹のテリー・L・マッカーネリーが運転し、大佐のドナルド・E・トムソンが彼の隣に座ったセダンは、板門店の北朝鮮側チェックポイントにかかっていた木製の障害物を突き破った。チェックポイントにいた北側兵士の発砲は40回を超えたが、セダンの3人は無事に通過した。

李の劇的な脱北は、反共を掲げる韓国政府の格好の宣伝材料になった。ソウルで開かれた李を歓迎する集会には5万人が繰り出した。家、車、現金、その他さまざまなものが李に提供された。韓国政府は、妻と3人の子どもを北側に残した李が、米国で教育を受けた韓国人の大学講師と結婚するところまで助力した。李は、反共講演ツアーで韓国全土を回った。
李自身が語った脱北の理由は、彼が書いた北朝鮮の指導者金日成(キムイルソン、当時)の演説記事に十分な配慮が行き届いていなかった、として追放される寸前だったからだという。李は、金日成体制下の生活を「地獄」と述べ、人びとは長時間働かされ、思想宣伝の集会は深夜まで続き、反体制者狩りも相次いだ、と言った。

しかし、韓国に逃げてきても、李は幸せではなかった。

彼は常に監視されていた。背信の兆候がないかどうか、当局は恐れていたのだ。最近の政府調査によると、当時、彼が反共講演中に台本から逸れると、監視当局に殴られていたという。
69年1月、李はかつらとつけひげで変装し、偽造旅券で南ベトナム・サイゴン(当時)経由プノンペン行きの飛行機に乗った。旅券は、北に残した妻のおいで韓国在住のペギョンオクの助けで手に入れた。韓国当局が李の乗った旅客機がサイゴンに着いたところで追いつき、プノンペンに向かう機内で李を逮捕した。

李は軍用機で韓国に連れ戻された。そうして「韓国CIA」として知られた諜報機関は、李の脱北は韓国内でスパイ活動をするための「フェイク(偽装)」だった、と発表した。
韓国紙は「ショック」「侮辱」といった大見出しで報じた。子どもたちは李を共産主義スパイだとののしる歌まで歌った。スパイとして有罪判決が出されてから、2カ月足らずの同年7月、絞首刑が執行された。

何人かのジャーナリストや歴史家は、この事件をずっと疑問視してきた。
2007年、かつての政権による人権問題を調査する「真実と和解のための過去史整理委員会」(当時)は、李およびペギョンオクは繰り返し当局の拷問を受けていたとし、裁判のやり直しを勧告した。

ペギョンオクは獄中に21年間服役、1989年に解放された。そうして再審の末、2008年にスパイの冤罪が晴れた。しかし、李の再審を求める肉親家族はいなかった。検察側が再審に必要な書類提出に踏み切ったのは2017年になってからだった。

18年10月、ソウルの中央地裁の判定が下った。李がスパイだとか脱北が謀略だったといった証拠はまったくない、それよりも李は北朝鮮にも韓国にも絶望し、第三国に移り住むことを願っていたことが判明した。判決文はそう述べている。

板門店の国連軍司令部で働いていた韓国系米国人のジェームス・M・リーは李の脱北を助けた一人で、1990年代末に韓国誌に回顧録を連載した。その中で「李は『北』でも『南』でも生きられない、そんな人物だったと私は思う」と述べている。

李が処刑された69年当時の韓国報道によると、処刑用のロープを眼前にした彼は北朝鮮の妻と子どもたち、そして韓国の妻に謝った、という。(抄訳)

(Choe Sang-hun)©2018 The New York Times

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