蚊が媒介する感染症を防ぐのに必要なのは、まず蚊との接触を断つこと。刺されなければ、感染はあり得ない。だから、流行地では防虫蚊帳や殺虫剤の散布といった対策が進められてきた。花王の新技術も、「刺されないようにする」に着目しているのは同じ。ただし、従来にない発想が売りだ。
そもそも化粧品や洗剤メーカーとして知られる花王が、なぜ蚊にこだわったのだろう?
子どもの虫刺されに悩む母親の声
同社パーソナルヘルスケア研究室長の仲川喬雄さん(47)は「タイなどで子どものスキンケア商品の開発のために聞き取り調査をすると、虫刺されに悩んでいるお母さんがとても多かったのです」と説明する。それを防ぐための各種商品も売られているが、忌避剤を含む肌用スプレーなどに関しては、「子どもにはあまり使いたくない」という声もあったという。そこで、スキンケア分野に強みを持つ会社として、日常的に、安心して使ってもらえる商品をゴールに定めた。
2011年に入社した仲川さんはアメリカの研究機関でも学んだ蚊のスペシャリスト。肌の表面を蚊が嫌がる性質にすることを目指し、当初は蚊が嫌うにおいをつければ効果があるのではないかと調べまくったが、うまくいかなかった。
転機は2015年に訪れた。肌にごく細かな凹凸をつけることでPM2.5や花粉がつきにくくなる日焼け止め製品の開発研究をしていた研究員が、その技術を蚊にも応用できるのではないか、と連絡してきたという。
「ツルツルにすれば?」→「だったらオイルだ」
残念ながら凹凸もうまくいかなかったが、「とまれないようにする」という重要な原点を得られた。
「ツルツルにしたら足を滑らせるのでは」「だったら、オイルはどうか」と、ここから研究が一気に加速したという。
仲川さんによれば、蚊は人の肌に降り立つと、まず足先で体勢を整え、その後に血を吸い始める。その体や脚には高い撥水(はっすい)性があり、水にも浮くし、雨が降っていても飛べる。しかし、スキンケア商品にも使われる低粘度のシリコーンオイルに触れると、短時間でオイルが脚にぬれ広がり、液体に引き込まれる力が働くことが分かった。
「5マイクロニュートン」というわずかな力だが、小さな蚊にとっては大きな脅威だ。体重60キロの人間だと、50キロ近い力で引っ張られる計算になるという。
「脚が引っ張られる感覚」または「人間なら、ぬかるみや新雪にズボッと足がはまるような感覚」が生じ、蚊は危険を瞬時に察知して、飛び立つことが分かった。「シリコーンオイルが脚についた蚊はその後、脚をしきりにこすってオイルを取ろうします。それほど嫌なのだと思います」と仲川さん。
ちなみに研究の過程で、この「蚊の脚を引っ張る」作用が、カバの汗にも含まれているらしいことも分かったという。「カバの肌はツルツルで、ゾウなどと違って分厚い皮膚に覆われていない。でも蚊や虫に刺されないのは、理由があるのではないかと考えました」。和歌山のアドベンチャーワールドのカバの汗を採取し、実験。やはり蚊がとまれなかったことが分かり、論文にまとめた。
製品は2022年6月、タイで販売が始まった。タイで好まれるというピンク色にし、ラベンダーなどの香りをつけている。価格は69バーツ(約290円)で競合する忌避剤などと同じ水準という。実際に塗ってみると、ボディーローションと同じで、意外なほどサラサラしている。
タイでは、東南アジアで脅威となっているデング熱予防を前面に打ち出した。「子どもが喜んでつけてくれる」など、反応は上々で、2024年3月にはシンガポールでも販売を開始。今年中に台湾と香港、マレーシアでも売る予定という。
東南アジアで広がる販路 次はアフリカへ
さらに、同じく蚊が媒介する感染症であるマラリア対策にも使える商品にと、ケニアで実証の準備を進めている。
協力するのは、ケニアでマラリア対策に携わってきた長崎大学熱帯医学研究所の皆川昇教授(64)=病害動物学=だ。蚊よけクリームについて、「発想が面白い。これまでの感染予防で足りなかった部分を補えるのではないか」と評価する。
花王に追い風になるかも知れないのは、現地にスキンケアの習慣があること。保湿用に乳幼児にはココナツオイルを塗り、少し大きくなるとワセリンのようなものも使っているという。
クリームについて、ケニア西部ビタ近郊の村で住民たちに聞くと、好意的だ。
イメルダ・アディアンボさん(35)は2カ月前、30代の弟をマラリアで失った。病院にかかったが手遅れで、「妻と幼い2人の子どもがいたのに……」と肩を落とす。
自身も昨年8月にマラリアにかかった。頭痛と高熱で身体の震えが止まらず、病院で注射を受け、薬をもらって回復した。蚊帳の中で寝たり、蚊取り線香を使ったりと対策をしているが、3〜18歳の7人の子どもたちもみな、マラリアにかかったことがあるという。「夕食の時間帯には、蚊が家の中を飛んでいる。蚊帳や蚊取り線香では防ぎきれないから、蚊よけのクリームがあったら使いたい」と話した。
皆川さんのもとで長年、研究アシスタントを務めるジョージ・ソニエさん(58)も期待する。「例えば、漁師は夜に仕事に出るから、ハマダラカが活動する時間に蚊帳の中にいられない。夜勤のある警備員もそうだ。夜に外で仕事をするような人々にも役に立つと思う」
一方、皆川さんは課題は二つある、とみている。
一つは、「蚊の脚を引っ張る」という武器が、デング熱を媒介するネッタイシマカやヒトスジシマカだけでなく、マラリアを媒介するハマダラカにも実際に効くかどうかだ。もう一つは、どの程度の価格なら受け入れられるか、ということ。「以前と比べると経済的にずいぶん良くなっているが、熱が出ても、マラリアの診断や治療に連れて行かない、あるいは行けない人もいるのが現実だ」
仲川さんも、そこは認識している。効果を実証できれば、当初は国際的な支援の枠組みを利用した寄付の形がありうる。その後、商品として受け入れられるような展開を描く。
皆川さんによれば、これまでのマラリア対策は、蚊帳の配布や治療体制の整備など「地域予防」が中心。成果をあげてきたが、それだけでは足りないことも分かってきた。一方、虫よけクリームは、「個人予防」にあたる。「その点でも新しい挑戦になるが、大きな期待を持っています」