総統府などがある台北の官庁街の一角に、台湾で最も古い台湾博物館の本館がある。2023年11月半ば、そこで認知症患者と介護者のための30分間のプログラムが行われた。
参加した5組はまず、かつて台湾にも生息していたネコ科の動物ウンピョウやアオガエルなどの剝製(はくせい)を見学。別室に移動し、大きなスクリーンの前に半円を描くようにして座った。
「皆さん、先ほど見た動物の鳴き声を使ってこれから曲を作りますよ」と博物館の担当者。
スクリーンに剝製で見た動物の写真を1枚ずつ映し出し、それぞれの鳴き声も再生。そして、その鳴き声とピアノによる「エリーゼのために」のメロディーをコンピューター上で合わせ、1フレーズほどの曲を完成させた。
それを聴いた参加者の一人が「ゴミの臭いがしてきそう」と言うと、笑いが起こり、近くの人と会話が始まった。「エリーゼのために」は、台湾の一部地域でゴミ収集車が流すメロディーだったからだ。参加者の視覚や聴覚を刺激し、記憶を呼び覚まして語らせることが狙いだったようだ。別のメロディーで作り直した曲をみんなで聴き、この日のプログラムは終了した。
参加者は、みな医師から博物館に行くことを「処方」されていた。
通常、医師が書く処方箋は治療に必要な薬を指示するためのものだが、台湾ではいま、医師が認知症患者に社会参加を促す「社会的」な処方箋に注目が集まっている。
自宅にこもりがちになる認知症患者が、処方箋に従って美術館や博物館のプログラムに参加。介護者とは違う人と会話したり、五感を使ったりすることで病気の進行を遅らせることを目指す。
台湾博物館は2019年、台北市立連合病院と「認知症患者にやさしい博物館処方箋」を実施する覚書を結んだ。医師が主に軽、中等度の認知症患者に処方箋を出し、それを持参した患者と介護者は無料で入館してプログラムに参加できる。鑑賞記録を医師に見せて、カウンセリングを受けることもできる。
これまでに10回以上、プログラムを実施し、のべ60組以上の患者と介護者が参加した。
台湾では家族が介護するケースが多く、患者が参加する間、家族がリラックスできることも処方箋の重要な目的だという。
病院や博物館、患者をつなぐ人は「リンクワーカー」と呼ばれ、台湾では看護師や作業療法士など国家資格を持つ医療従事者が担う。博物館と患者の双方と連絡を取り、プログラムの内容や患者の関心、体調を聞き取って計画を立てる。
同博物館の教育普及グループ長、黄星達さんは「所蔵品の展示だけではなく、地域や人との関わりを持って社会のニーズに貢献するという新たな博物館の役割を果たしたい」と話す。 こうしたプログラムは博物館の予算で実施している。しかし、台湾が超高齢社会を迎える前に、政府に介護政策費に盛り込んでほしいと黄さんは言う。「高齢化問題は台湾全体の問題。人びとの理解も得やすく、政治家たちも注目している」
参加者たちからも好評のようだ。この日が2回目の参加で、昔から美術館が好きだという元建設業の劉国泉さん(68)は「これまで知らなかった生き物を知ることができて良かった」。介護する妻の孫一得さんは「私もリラックスできた。外出することは(介護の)励みにもなる」と話す。
元建設業の王超剛さん(82)は3回目の参加で、「初めて見たり、知ったことがあり感動した」と言う。普段は自宅にいることが多く、妻の曽其燕さん(67)と小さなけんかをよくするというが、曽も「他の人と話すことが楽しい。外出すると夫も夜ぐっすり眠れるようだ」と話す。
プログラム参加後には深い睡眠が増える
この日の患者たちに処方箋を出したのは台湾の認知症治療の第一人者である台北市立連合病院認知症センター所長の劉建良医師。「病院には高齢者や身体障害者などのための社会福祉基金があり、その活用法を検討しているときに英国などの社会的処方を見つけた」。この基金を使い、約4年間でのべ2500組以上が社会的な処方箋を受け取ったという。
効果の実証も進む。その一つが陽明交通大学の陳右穎教授らの協力を得て実施したテストだ。昨年、同博物館のプログラムに参加した7組の患者と介護者にスマートウォッチを着けてもらい、2週間にわたって心拍数や睡眠の深さなどを計測。その結果、プログラムに参加中はリラックス感が高まり、参加した後には幸福感やリラックス感が増幅し、痛みや不快感、不安は減少したことがわかった。
さらに深い睡眠の割合も増えた。台湾では睡眠導入剤の費用が健康保険制度の大きな負担になっており、深い睡眠が増えると睡眠導入剤の使用が減少すると推計されるという。
劉医師は「博物館処方箋の効果は明らかだ。最初は連携する施設が少なかったが、美術館や植物園など連携する機関が増えており、これからもっと増えていくだろう」と言う。
取り組みは日本でも 「記憶や他者とつながる」効果
日本でも取り組みが始まっている。東京都美術館は2021年、高齢者対象の新しい事業を始めた。その名も「Creative Ageing(クリエイティブ・エイジング)ずっとび」だ。名前は、いくつになっても「ずっと」通いたくなる「都美」(東京都美術館の愛称)に由来する。
「ずっとび」には認知症の人やその家族を対象にしたプログラムもある。
台湾博物館を参考に、地域の病院や福祉施設と連携し、美術館に興味のありそうな人や家族に参加を呼びかけてもらった。参加料は無料だが、同美術館の観覧料は実費。同美術館で開催中の展覧会を活用しつつ、プログラム実施費用は観覧料や物販収入などで得られる自主財源で賄っている。2021年にはオンラインで「おうちでゴッホ展」を実施し、2022年には館内で、デンマーク家具と岡本太郎の作品を鑑賞した。
「ずっとび」で特徴的なのは、参加者にマンツーマンで寄り添う「とびラー」の存在だ。
同美術館と東京芸術大学と市民とで連携し進めている「とびらプロジェクト」で活動するアート・コミュニケータで任期は3年。一般公募の会社員や学生、シニアなど18歳以上の様々な人で構成。話している相手に関心を持って「きく」ことに重点を置いたコミュニケーションや、美術館での鑑賞体験を学び、活動への理解を深めている。
参加者からは「とびラーと一緒に作品を見て、おしゃべりできてうれしかった」という感想が多く寄せられる。医療、福祉関係者たちも「参加者はデイサービスに来ているときとは違い、おしゃれをしていたり、普段とは違う表情を見せたりする」と言う。
同美術館の学芸員、藤岡勇人さんは言う。「認知症になってもアートを身近に感じ、作品や自分の記憶とつながり、他者ともつながれる。そうした美術館を目指したい」