アルツハイマー病の人の脳の中では、症状が現れる10年以上前からゆっくりとした変化が始まっている。
最初はアミロイドβ、次にタウというたんぱく質が脳内にたまると、神経細胞が少しずつ死んでいく。脳の記憶にかかわる部分が縮み始めると、新しい出来事を記憶することができなくなる。そのため、財布をしまったことを忘れて「盗まれた」と言ったり、食事を終えた数分後に「食べていない」と訴えたりするなど、直前の出来事も思い出せなくなる。
「記憶障害で困るのは『未来の記憶』」と慶応大教授の三村将は話す。「過去の記憶を忘れると周囲は悲しいが、日常生活はそれほど困らない。未来の記憶を忘れると、悪気がないのに約束をすっぽかすなど、すぐに信頼を失う」
だが認知症は、記憶が失われるだけの病気ではない。誰もが同じ経過をたどるわけではないが、だんだん、自分が今いる時間や場所がわからなくなり、さらに症状が進むと、家族でさえ誰だかわからなくなる。排泄や食べることといった、基本的な営みさえできなくなる。なぜか。
たんぱく質がたまると、神経細胞の働きが悪い部分が少しずつ広がり、大事な脳のネットワークが失われるためだ。
記憶に必要なネットワークに始まり、言葉を理解して表現するネットワーク、周囲の出来事に注意を払うネットワーク、ものを考えるネットワークなど、さまざまな働きが次第に衰えていく。人の表情を読み、理解したり共感したりする部分が損なわれると、人間関係を維持することがむずかしくなる。
認知症は、人間が生まれた時から少しずつ学んで獲得し、その人たらしめている脳の働きを少しずつ奪っていく病気だ。人は誰もが死を迎えるが、その前に脳の細胞がゆっくりと壊れ、自我が失われていく。
ただ症状が進んでも、感情の記憶は長く残ると言われる。日々、患者と接している首都大学東京教授の繁田雅弘は「周囲が思う以上に、本人はいろいろな思いを感じている。何もわかっていないように見えても、家族に感謝の思いを抱いていることも多い」と話す。(瀬川茂子)
(文中敬称略)
■「子が介護」の限界
「日本式サービスは丁寧だね。医者も常駐していて安心」。4月中旬、記者が中国・山東省青島市にある老人ホーム「長楽居」を訪ねると、入居する男性が満足そうに話した。
長楽居は老人ホーム事業大手のロングライフグループ(大阪市)の関連会社が2012年から運営する。27階建てマンションを改装し、入居費は最低でも月6200元(約11万円)。青島市内の年金平均額の倍以上で、160戸のうち130戸が埋まる。個人の好みに合わせた朝食などきめ細かいサービスが売りだ。認知症などで介護が必要になると、入居者は設備が整った6階に移る。介護用フロアは今後、次々と増える見込みだ。
一人っ子政策の影響などで高齢化が急速に進む中国では、老人ホームの建設が相次ぐ。高齢化のペースは日本より速い。民政部の統計などによると、65歳以上の高齢者は14年末時点で1億3755万人と、人口の10%を占め、34年には20%に達すると推計されている。
認知症の患者数も増えている。北京の首都医科大などの推計によると、10年の時点で919万人と、20年間で2.5倍に増えた。低中所得国での認知症患者は急増しており、50年には世界の3分の2を占めると予測されている。中国は、その象徴といえる。
だが、認知症の人を介護できる施設は少ない。青島市の公設民営老人ホーム「錦雲村老年公寓」でも、受け入れを始めたのは最近だ。「まだまだ退所させてしまうホームがほとんど」と経営者は話す。
中国では「親の介護は子どもがするべきだ」との伝統的な考えが根強い。中国の介護制度に詳しい日本女子大学教授の沈潔は「認知症患者の95%以上は、家族が在宅で世話している」と話す。13年に施行された改正高齢者権益保障法は、「高齢者と別居する家族は、日常的に帰るか連絡すること」と明記する。
ただ、その慣習も変わりつつある。一人っ子政策の影響や出稼ぎ労働の広がりで、家族だけで親の面倒をみるのが難しくなってきたからだ。「未富先老」という言葉も中国メディアを賑わす。国が豊かになる前に、高齢化の波が社会を襲うという意味だ。習近平国家主席は2月、「高齢化に効果的に対応しなければならない」と党と政府に指示し、老人介護を重大政策に掲げた。
その潮流に乗り、北京市では11月、認知症患者が共同で生活する中国初のグループホームが誕生する。10年まで日本医科大学に勤務していた医師の金恩京(49)が計画した。
金の母親もアルツハイマー病のため、06年に亡くなった。地元の病院に入れることもできたが、「4人部屋のベッドに縛られてしまう」と度々帰国し、住み込みのお手伝い探しに駆け回った。母の死後、大学の研究でかかわった日本のような介護施設を作りたいと、中国に戻り施設経営者となる道を選んだ。金は「新たな産業になれば、入居者の裾野も広がる」と期待している。(小山謙太郎)
(文中敬称略)
■緩慢なる死
アルツハイマー病を予防することはできるのか。米国立加齢研究所は30以上の臨床研究を進めるが、まだ確立されたものはない。
ただ、運動はリスクを下げる可能性がある。運動することで脳の血流が増え、記憶にかかわる神経細胞を守る物質が増えるためらしい。運動のほか、野菜や果物が多く脂肪が少ない食事、質の高い睡眠、動脈硬化や糖尿病の予防、禁煙などがリスクを下げる可能性がある。多くは、生活習慣病の予防と共通する。
「予防を意識したら、早い時期に始めるのがよい」と同研究所のマドハブ・サムビセッティは言う。50歳のときのBMI(肥満度を表す指標)を1下げると、アルツハイマー病の発症が6.7カ月遅れるという論文を昨年発表し、注目を集めた。
国際アルツハイマー病協会事務局長のマーク・ウォートマンは「『脳トレ』や、音楽療法などは本当に効果があるのか。効果があるのなら、どんな方法がいいのか。もっと研究が必要だ」と話す。(瀬川茂子)
(文中敬称略)