1. HOME
  2. 特集
  3. 「認知症」という海
  4. 認知症の特効薬、本当にできるのか

認知症の特効薬、本当にできるのか

World Now

脳の細胞が壊れることで、記憶が抜け落ちるなどさまざまな症状が出る認知症。この病に苦しむ人は世界で5000万人に迫るが、いまだ特効薬は生まれていない。

認知症の半数以上を占めるアルツハイマー病の場合、薬は4種類ある。エーザイが1990年代に発売した「アリセプト」はその代表格で、ピーク時には世界で年3228億円を売り上げた。だがいずれも症状を改善する対症療法で、進行を数カ月から2年弱、遅らせるだけだ。それでも人々は、薬にすがる。

こんな状況を劇的に変えるかもしれない新薬の開発が、海外で進む。

ロンドン郊外に住むジョナサン・グレンジ(73)は、2年前にアルツハイマー病と診断された。以来、台所に真っ青な錠剤を置き、朝晩1錠ずつ飲んでいる。

10年ほど前に退職したジョナサンは、しばらくすると、今日が何曜日なのかを思い出せなくなった。お金の計算もできなくなり、たどりついた診療所でアルツハイマー病と診断された。父も同じ病気だった。

新しい薬の安全性や効果を確認する臨床試験(治験)を医師に紹介されると、「失うものはもう何もない」と参加を決めた。

■年2兆円規模の市場に

治験の参加者の3分の1は、見た目は同じだが、薬の成分が入っていない偽薬を割り当てられた。ジョナサンが飲んだ薬が新薬なのか、偽薬なのかはわからない。だがジョナサンは「よくなっているとしか思えない」。今も直前の出来事は思い出せないが、ガーデニングを楽しみ、新聞もよく読むようになった。「薬が効けば、このままずっと家で暮らし続けたい」

治験は3段階のステップを踏むが、開発中の薬は最終段階にある。2段階目の結果をまとめた論文では、1年間たっても、新薬を飲んだ人は認知機能がほとんど落ちていなかった。

「楽観的に言えば、2017年か18年には世に出せるだろう。控えめにみても、年1兆~2兆円規模の市場になる」。この薬の開発を30年間続けてきた英アバディーン大教授のクロード・ウィシクはこう予測する。この予測が当たれば、一気に売り上げトップの超大型新薬が誕生する。最終結果は、7月にも学会で発表する予定だ。

米紙ウォールストリート・ジャーナルは昨年末、この新薬の開発元のベンチャー企業が17年にも米ナスダック上場を狙っており、時価総額は、150億ドル(約1兆6500億円)に上る可能性があると報じた。

だが、大手製薬企業が軒並み参戦し、最終段階まで進んでも、薬の開発はことごとく失敗してきた。一般的に治験の成功率は10~20%程度とされるが、アルツハイマー病薬の場合は0.4%というデータもある。この薬も成功するかどうかは未知数だ。

なぜこんなに難しいのか。それは、この病気がどういう仕組みで起きるのかが、わかっていないためだ。

■2025年までに治療法と予防法を開発

現在、有力なのが「アミロイドβ」と「タウ」という二つのたんぱく質が病気の発症に関係しているという仮説だ。症状が出る10年以上前からアミロイドβが脳にたまり始め、その後、タウがたまると神経細胞が死に、症状が出ると考えられている。ウィシクの薬はタウを標的とし、細胞が死ぬのを防ごうとする点が、従来の薬とは異なる。

米国立加齢研究所や製薬企業イーライリリーは、認知症の症状は出ていないが、脳にアミロイドβがたまっている人の発症を予防できるかどうかを確かめている。65~85歳の健康な人に月1回「ソラネズマブ」という薬を点滴し、3年間、経過を追う。

ソラネズマブはもともと、認知症の根治薬として開発が始まった。だが進行を抑えることができず、治験は失敗した。その後、細胞がそんなに傷ついていないごく初期の人には効果があるとわかり、再び治験が始まった。いわば「敗者復活戦」だ。

治験を主導するブリガム・アンド・ウィメンズ病院のライザ・スパーリングは「20年にも結果は出る。アルツハイマー病は予防できると証明できるはず」と自信たっぷりだ。米国は11年に「国家アルツハイマー病プロジェクト法」を制定し、25年までに治療法と予防法を開発することを目指している。

だが予防薬ができても、症状が出ていない人にも薬を使うようになれば、皆保険制度の日本では財政に大きな負担がかかる。最近認可された「がんの特効薬」の治療費は、年間3500万円にものぼる。

そもそも、新薬ができれば病を克服できるのか。3月に米国立保健研究所が開いた認知症の会議では「認知症は複雑な病気。一つの薬ではなく、複数の薬を組み合わせた治療法の開発が必要だろう」という意見が相次いだ。(下司佳代子、瀬川茂子)
(文中敬称略)

■病の先にあるものは

英ヨークシャーの風景を描いた画家デビッド・ブラックバーン。最後の数年はアルツハイマー病と闘い、76歳で生涯を閉じた Photo: Christopher Nunn

第2次世界大戦後の寿命の伸びには、目をみはるものがある。戦前は50歳に届かなかった日本人の平均寿命はいまや、80歳を超える。

医学の進歩の影響が大きく、1940年代に実用化されたペニシリンなど抗生物質の登場で、感染症で亡くなる乳幼児は激減した。「不治の病」の代表だった結核も、ストレプトマイシンの登場で劇的に死亡率が下がった。

日本では戦後しばらく死亡原因のトップだった脳卒中も、生活習慣病の知識や降圧剤の普及で大幅に減った。代わって現在、最も死亡率が高いのが、がんだ。

米大統領のニクソン(当時)が71年に「がんとの戦争」を宣言して以来、先進国は膨大な研究資金を投入してきた。これが早期発見や新しい抗がん剤の開発につながり、さらに寿命を延ばしている。

その先に待っていたのが、認知症だった。

■2050年には1億3000万人が認知症に?

長生きすれば、発症のリスクは高まる。世界保健機関(WHO)などの報告書によれば、60~64歳の発症率は1%前後だが、80歳を超えると5人に1人が認知症になる。世界では2015年に990万人が新たに認知症になり、患者数は4680万人にのぼる。高齢化が進み、2050年には1億3150万人まで増えるとの推計もある。

認知症はそもそも、がんや結核などと違い、病気そのものではない。記憶障害や認知機能の低下など、様々な症状を合わせた状態を言う。脳の神経細胞がどう変化して発症するのか。アルツハイマー病では、その仕組みすら仮説にとどまる。

日常生活に支障が出るかどうかは、家族や地域社会の受け入れ態勢や、対応の仕方に大きく左右される。現実には、病院や施設をたらい回しにされたり、「問題行動」を薬で抑えられたりといったことが起きている。

暴力や妄想などの症状は、言動をとがめられると悪化する。患者のこころを無視するようなケアは、当事者にとってはつらいだけだ。認知症の人も暮らしやすい社会のあり方が、問われている。(瀬川茂子、浜田陽太郎)
(文中敬称略)

■代え難い時間を過ごす――佐々木孝インタビュー

1968年、婚約中に撮影

福島第一原発から25キロにある南相馬市の自宅で、認知症の妻、美子(72)を介護しながら暮らしています。

英語教師だった妻との出会いは、48年前。お互い一目ぼれで2カ月の間に60通近い手紙をやりとりして、結婚しました。私は自分の書く論文をまず妻に見せます。妻はいつもほめてくれ、「パパ、頑張って」と応援してくれました。

その妻が「生徒たちの成績処理ができなくなった」と不調を訴えたのが、15年ほど前。パスポートのサインができないなど症状は徐々に進みました。

7年ほど前からは意思の疎通も難しくなりました。私はもともと、短気な性格です。食事をさせようとして顔を背けられたり口を開けようとしなかったりするとイライラしました。でも、以前のような分別はもうつかないのだと、気持ちを切り替え、ゆっくりと待つことにしました。

5年前の原発事故当時、市がバスを用意して避難を促し、一帯はほぼ無人になりました。でも、私は最初から逃げるつもりはありませんでした。妻が避難所生活に耐えられないことは明らかだったからです。妻のおかげで魂の重心を低くでき、不思議な勇気と落ち着きをもらった気がします。

もし奇跡が起きて、美子が認知症になる前に戻れる薬が発明されたとします。でも副作用で認知症になって以降の記憶はすべて消えてしまうなら、使うことは望みません。二人がともに暮らしたこの十数年という時間は、何ものにも代え難い。

病、老化、そして死も、生きることの大事な要素です。それを、ばい菌のように排除し、見ないようにすれば、やわな社会になってしまうと思うのです。

■コスト計算で見えたこと

世界では3秒に1人、新たに認知症患者が生まれている。国際アルツハイマー病協会の推計によると、2015年の4680万人から、30年には7470万人に増える。それに伴い、医療や介護など認知症にかかるコストも、90兆円から220兆円にふくれあがると予想されている。

世界にさきがけ、コストの視点を認知症の国家戦略に採り入れたのが英国だ。13年には首相キャメロンの呼びかけで「主要8カ国(G8)認知症サミット」を開催。高齢化が進む中、認知症を先進国共通の課題ととらえた。これがきっかけとなり、15年のWHOの大臣級会合では、途上国も含め、国を越えて取り組みを進めることで一致した。

英国で認知症が政治的に注目されたきっかけは、ロンドン大経済政治学院教授のマーティン・ナップが約10年前に行った認知症のコスト計算だ。医療費や介護費に加え、家族らによる無償介護の時間を賃金に換算し、認知症の人1人あたりにかかる年間コストを約400万円、英国全体で約2兆7000億円とはじきだした。GDPの1%超にあたる。

数字の大きさは、認知症が抱える負担の大きさを可視化した。一般の関心も高まり、主要な政治課題となったのだ。

世界の認知症患者は今後、20年ごとに倍増すると予想されている。うち6割は低中所得国に住む。新たな治療法の開発やケアのあり方を考えなければ、コストはうなぎ登りになる恐れがある。

ナップは「新薬ができれば、相当なお金を節約できる可能性がある」と指摘する。例えば、新薬により発症を3年間遅らせられれば、患者とその介護者にかかる医療や介護のコストが減り、年間コストは20%以上減るとみる。

コスト計算により、介護する側の負担の大きさも浮き彫りになった。14年の試算では、年間コストは約4兆円に増え、うち半分近くを家族らによる無償の負担が占めた。

「施設に入るより在宅の方がコストは抑えられるが、それは一方で、家族の負担を増やすことを意味する。充実した支援が欠かせません」

日本の場合、患者数は英国の約6倍にのぼる。慶応大専任講師の佐渡充洋らが計算した14年の年間コストは、約14兆5000億円だった。うち医療費が1兆9000億円、介護費が6兆4000億円で、家族らによる無償の介護が6兆2000億円にのぼった。25年には、総額19兆4000億円に達するとみる。

家族らによる無償の介護は、介護保険を利用した場合や、介護の代わりに外で働いたら得られる賃金などをもとに求めた。佐渡は「コスト計算自体は何かを解決するわけではなく、どこに課題があるのか把握するためのものだ」と強調する。「負担を軽くできれば、コストも減る。社会全体で負担を減らす方法の研究が必要です」(下司佳代子)
(文中敬称略)

■認知症大国ニッポン

サミュエル・パーマーの画集をめくるデビッド。2012年撮影 Photo: Christopher Nunn

見知らぬ街でレンタカーを走らせる。日はとっぷり暮れたが、どこまで行っても見覚えのない風景。強い不安に襲われ、思わず叫んだ。

8年前の米国出張で、パニックに陥ったあの時。それは、認知症の人が感じる恐怖に似ているかもしれないな……。

記者(浜田)は、社会保障の分野の知見を深めるため、社会福祉士の資格を取ろうと考え、今年1月から3月にかけて、高齢者施設で計23日間の実習を行った。今や利用者の大半は認知症である。

認知症対応型のデイサービスでは、今年80歳になる女性に付き添い、考えた。もしこの人と入れ替わったら……。頭の隅から引っ張りだしたのが、冒頭の記憶だ。

女性は、ほんの数分前に行ったトイレの場所を覚えていない。午前中は穏やかだが、昼過ぎから不安げに歩きまわり始める。ちょっと強めの声がけで誘導しようとすると、強く反発することもある。午後5時に女性が帰宅すると、クタクタになった自分がいた。

世界で最も速いペースで高齢化が進んだ日本。2012年時点の患者数は462万人にのぼり、高齢者の7人に1人が認知症だ。団塊の世代が75歳以上になる25年には、5人に1人に増えると予測される。

認知症患者のうち、170万人は自宅で介護保険を使っているが、入院している人も約8万人いる。スウェーデンのカロリンスカ研究所の通信教育でケアを学んだ東京の在宅医・遠矢純一郎は「認知症で精神科病院に入院中の人の在院日数は平均944日というデータもあると紹介したら、ドイツやギリシャなどの受講生に驚かれた」と話す。欧州では、それほど長期間入院する例はまずないという。「日本では、病院で症状が落ち着いても自宅に帰せないことが多い。地域でケアする力が不足し、家族に負担がかかりすぎるからです」

今年3月には、認知症の男性が列車にはねられた事故の判決があった。最高裁は遺族に賠償責任はないとしたが、地裁と高裁は介護をしていた家族への賠償請求を認めていた。家族が深く介護に関わるほど、責任を負う可能性が高まる構図は解消されていない。(浜田陽太郎)
(文中敬称略)