ヘッドホンつきで味わうかも肉
鮮やかな葉っぱの映像が天井のプロジェクターから投影され、大きな白いテーブルを緑色に変えた。目の前には木を輪切りにした皿が置かれ、メインのかも肉がのる。映像は皿の部分だけ緑色にならないように設計されており、つやつやした肉の質感が浮き上がって見え、食欲をそそる。
「それではヘッドホンをつけて、楽しんでください」。シェフの合図で、12人の客が一斉にヘッドホンを装着した。鳥の鳴き声と森のざわめきが流れ込んでくる。
ナイフでかも肉を切り、口に運ぶ。何とも不思議だ。捕まえたかもをその場で調理して自然の中で食べているようなリアルな感じ。
ヘッドホンをつけたり外したりして比べてみる。音ありの方が、肉のしっかりした歯ごたえと濃い味を感じるような気がーーつまり、おいしい気がする。隣の席のゴードン・レニーさん(76)に尋ねると、「音が味に影響するというのは、あるかもしれない」とうなずいた。
「音は、忘れられた調味料だ」
「味覚に影響を与えるものとして、聴覚を挙げる人はほとんどいない。でも、影響している。音は、忘れられた調味料なのです」とシェフのジョゼフ・ユセフさん(42)は言う。
ユセフさんは舌だけでなく、マルチセンソリー(多感覚を刺激する)料理で客を楽しませる気鋭のシェフだ。ロンドンの大英博物館近くの静かな住宅街の一角にある隠れ家的レストラン「キッチン・セオリー」で提供される人数限定のコース(8品でアルコール飲料を含めて約4万4400円)は、バリエーション豊かな音や音楽、照明、素材の放つ香りや手触りがどう味覚に影響するのかを体験させてくれる。
黒いグミを食べて何味なのか客に当てさせたり、手術で使うような銀色の皿に真っ赤なアイスをのせて心拍音を聞かせたり。その都度、客は驚き、楽しみ、2時間余りがあっという間に過ぎていった。
この日のメニューではないが、ヘッドホンを利用した料理では他に、クラゲを出したこともあるという。「お客さんには海の音を聞いてもらいます。さらに、カリッコリッという風な音も加えて、素材の歯ごたえを強く感じてもらえるようにしているんです」。
多くの客は、クラゲを食べたことがない。ジェリーフィッシュという名前から、グニャッとした食感を想像するが、実際のクラゲはコリコリしている。その歯ごたえに集中してもらうための仕掛けが「カリッコリッ」なのだという。
ユセフさんが、こうした「音の調味料(ソニック・シーズニング)」の理論を学んだのは、実験心理学者でオックスフォード大学のチャールズ・スペンス教授(54)からだ。
スペンス教授の名前を一躍有名にしたのは2008年、「ソニックチップ」と呼ばれる研究でイグ・ノーベル賞を受賞したこと。
「パリパリ音」増幅で新鮮さアップ
研究の概要はこうだ。被験者は学生ら20人。ヘッドホンを装着してポテトチップス「プリングルズ」を前歯でかじってもらう。その時に出る「パリパリ」という音をコンピューターで操作し、音量を大きくしたり、小さくしたり、特定の周波数を強調したりして、かじると同時に聞かせた。
素材の新鮮さを0~100で評価してもらったところ、高周波音を増幅し、乾いたような「パリパリ」を強く響かせた場合、高周波音を消した時と比べ、10ポイント以上、新鮮に感じるとの結果が得られた。周波数を操作しない場合と比べても新鮮さの評価が高かった。
プリングルズは同じなのに、学生らはパリパリ感や新鮮さが違う別物を食べていると思ったというのだ。
スペンス教授によれば、食べ物をかむと、音は二つの経路で耳に届く。あごの骨を伝わるものと、空気を伝わるものだ。脳はそれらを口の中の感覚と結びつける。そこを利用し、パリパリ音を増幅した音を聞かせると、脳は口の中の食感が変わったと感じる。つまり「だまされる」わけだ。同じ現象はニンジンやリンゴでも得られるという。
では「新鮮さ」とは、おいしさなのだろうか。スペンス教授は「仮説」と前置きしてこう説明した。「チップスでも野菜でも、パリパリ、サクサクという音に、人は新鮮さを感じる。そして新鮮ということは、それだけ栄養が保たれていると人は学んできた。だから、私たちは新鮮さを好むのではないか」。確かに、しけったポテトチップスをおいしく感じないのは、「パリパリ感=新鮮さ」が欠けているから、と考えれば腑に落ちる。
一見笑えるが、味覚の不思議や、おいしさとは何なのかという謎にも迫るソニックチップ研究は一躍注目を浴び、音と味の関係を解き明かす研究を後押しした。「ポテトチップスの袋が立てるガサガサ音が大きければ大きいほど製品のパリパリ感が増す」といった研究や、高い音と低い音が苦みや甘みにどう影響するか、といった研究が盛んになっている。
航空会社の機内食にも応用
ブリティッシュ・エアウェイズやフィンエアーは「音の調味料」の理論に基づき、機内食をおいしく感じさせる音楽のプレイリストを作った。当時の報道によれば、マドンナの曲の高音がデザートの甘みを引き立て、オーティス・レディングの曲の低音がチョコレートの苦みを強く感じさせる、といった具合だ。
スペンス教授は「研究が深まれば、少ない量で満足できる食事や、薄い味付けの食事にも役立つようになるだろう」と言う。パリパリ音を追究することで、拒否感を抱く人が多い昆虫食の普及にも役立つのではないか、と推測している。
ただ、日本では「音の調味料」はまだ知られていない。来日経験もあるスペンス教授は「確かに多くの和食店は無音だった。寿司屋も音楽はかけてなかった。日本のシェフは静寂を好んでいるようだね」。
それでは、寿司に合う音楽を作って欲しいと言われたら?
「まずは海の音を聞いてもらう。シンプルな方が良い。塩味を強く感じる音楽でしょうゆの塩分をカットするというのはどうだろう。ワサビはまだ試したことがないが、ショウガのための音楽や唐辛子のための音楽はすでにあるから、何かできるんじゃないか。ただし、これは全て寿司職人が賛成してくれないと駄目だ。ちょっと難しそうかな」と笑った。