胎内にいる時から亡くなる前まで 身近な聴覚
耳を澄ました。見えるものに頼らないように目を閉じて。何が聞こえ、そこから何が分かるだろう。
最初に飛び込んできたのは水の音だ。よく聞くと、左手から右手へと流れているのが分かる。鳥の羽ばたきと鳴き声。木々が風に揺れ、ガサガサ鳴る。
少し遠くで人の声がした。母親だろうか。「そろそろ帰るよ」と英語で呼びかけ、子どもが答える。「もうちょっと」。そう、母親の声はまだ怒っていなかった。子どもにもそれが分かっただろう。
遠くには電車の音。突然、右後方でチリンと鳴った。「右側を通ります」と女性の声。自転車だ。風を切る音とぬれた路面を走るタイヤの音が残った。
目を開ける。れんが造りの住宅街の脇を川が静かに流れている。雨が降ったりやんだりの天気で水は濁っているが、川岸には赤や黄に色づいた木々が並び、散策やジョギングをする人が絶えない。11月上旬、記者が立っているのは、古くから大学の街として知られるイギリス・オックスフォードだ。
人間は母親の胎内にいるときから音を聞くようになる。そして亡くなる前、五感のうち最後まで機能するのは聴覚と言われている。
「人間にとって音はとても身近で、大切なものだ。私たちに多くのことを伝えてくれる」。オックスフォードで会ったスチュアート・フォークスさん(44)が言う。世界の街の音を集めるウェブサイト「Cities and Memory」の運営者だ。
フォークスさんは音楽が好きで、長くバンドで演奏。自ら録音した環境音を取り入れた楽曲を作ってきた。その環境音と、それを生かした自らの楽曲の発表の場にしようと、2015年にこのサイトを立ち上げた。サイトに投稿する最初の録音場所として選んだのが、ここ、テムズ川のほとりだった。
サイトを立ち上げたフォークスさんは、自分以外の人の作品も聞きたいと思い、誰もが投稿できるようにした。すると、世界中から音源が集まってきた。その音源を利用して新たな曲を作り、サイトに載せて欲しいと希望するミュージシャンも続々と現れた。現在では110を超える国・地域で録音された約6000音源が掲載されるに至っている。
サイトに埋め込んである世界地図のあちこちにピンが立っている。ピンをクリックすれば、その場所で録音した音源と、それを元にした楽曲にアクセスできる仕組みだ。
波や風雨 北極のイッカク 北朝鮮の地下鉄も
音源は多彩。波や風雨などの自然、電車や船や飛行機などの交通機関、にぎやかなマーケットや交差点の雑踏などなど。珍しいところでは、北極のイッカクの鳴き声も。ドイツの研究機関が録音し、提供してくれたという。「毎日メールを開くのが楽しみだ。北朝鮮の地下鉄の音が届いた時は本当に驚いた」とフォークスさん。
掲載されているのは環境音だけではない。テーマを決めて投稿を呼びかけると、時代をダイレクトに表す音が集まってくる。
世界中がコロナ禍に包まれ始めた2020年春には、「ステイホーム・サウンド」の投稿を呼びかけた。
セネガルからはウイルスが地域に災いをもたらさないよう祈る歌が、ペルーからは警察官や医師など感染の危険に直面しながら働く人たちへの称賛と拍手が、フィンランドからは会えなくなった甥っ子らのためにロアルド・ダールの物語を朗読する女性の声が、届いた。抑揚をつけつつ、登場人物の声色をまねる迫真の朗読からは、離れて暮らす大切な人への愛情がにじむ。
フォークスさんは「音の背景にある物語こそ重要。パンデミックで人々がどんな生活を送っていたのか、写真やテキストだけでは表現できないことが伝えられた」と説明する。世界の街や暮らしをユニークな手法で浮き上がらせる手法に行政や研究機関、メディアも注目し、サイトの知名度は高まった。
世界中で声を上げる人々の記録
2017年に募集した「抗議と政治」というテーマでは、イギリス北東部ニューカッスルから、シリア空爆に反対する演説の様子が投稿されていた。
声をあげているのは男性だ。説明を読むと、冒頭に流れるギターは路上ミュージシャンによるもので、演説で演奏を中断せざるを得ず、腹を立てていたらしい。その場所に行ったことがなくても、ぼんやりと情景が目に浮かんでくる。どれくらいの人が立ち止まって耳を傾けただろう。
演説を聴いていると、思いは他へと移っていく。現在、戦争と言えばウクライナ、そしてガザ地区の悲惨な状況がニュースを埋め尽くしているが、シリアでも泥沼の戦争が続いている事実に改めて思い至る。同時に、かつて、シリアから日本に逃れた難民の女性を取材したことを思い出した。美しかった故郷が破壊されたことを嘆き、平和を構築する方法を日本で学びたいと言っていた。彼女は元気だろうか。
「音は聞き手をある場所に連れていったり、時間をさかのぼらせたりする。写真とは違う方法で記憶や感情と深く結びついている」とフォークスさん。サイトに古い音源も、新しい音源も等しく並べているのは、それぞれの重要性に違いがないと考えているからだという。
世界中から送られてくる音を聞き続けることで、フォークスさんは現代の街と音を巡る状況にも思いをはせるようになった。
「私たちは明らかに視覚優位の時代を生きている。インターネットやソーシャルメディアが拍車をかけ、誰もが短編動画に夢中だ」。行政も民間も歴史的な建物や場所は保存しようと努力を払うが、「街を表現する大切な要素である音を気にする人はいないし、守るシステムもない。一度消えてしまった音は永遠に取り戻せないのに」。
そんな思いを抱いていたからこそ、2022年11月、大英図書館がサイトの社会的価値を認め、掲載された音をデジタルアーカイブに保存するようにしてくれたのは、大きな喜びになった。
当初は創作の発表の場として始めたサイトだ。投稿者も、音源を作曲に使うミュージシャンも、報酬は得ておらず、サイトのコンセプトに共感した人たち。フォークスさん自身、デジタルマーケティングのコンサルタントとして生計を立てながら、夜と週末に時間を割いて運営を続けてきた。そうした苦労が報われた。
ただ、世界の音を網羅しようとするサイトに終わりはない。ピンが立っていない国はたくさんある。それぞれの街でも新しいビルが建ち、古いビルは消えていく。それに伴い、音も変化する。
「街の音はいま、大きな転換期にある」とフォークスさん。
世界中の街の音を長く支配し、均質化してきたのは車のエンジン音だったという。電気自動車の普及は街の音をどう変えるのか。「おそらく、人間はより多くの音を聞くようになるだろう。劇的な変化が起きる時代に居合わせられるのはとても幸運だ」
「移民の音」プロジェクトが進行中
フォークスさんは現在、オックスフォード大学の移民観測所と連携して「移民の音」を募集している。
移民問題は英国でも関心が高い。不法入国者への対応策が日々、論じられている。だが、観測所のロブ・マクニールさん(50)はこう言う。「移民は、政治的、経済的な論争を呼ぶ。しかし、私たちはその是非を論じたいのではない。新たな、全く別の側面から、移民や人が移動することについて知ることができる手がかりを集めたい」
故郷を離れる時に聞いた音や、新たな土地にたどり着いた時に聞いた音、あるいは近所にある移民が経営する店でのやり取りなど、「私たちの日常の中には、すでに多くの『移民の音』がある」とマクニールさん。
フォークスさんも「とても今日的で、世界中の人々に関心を持ってもらえるテーマだと思う」と言い、日本からの投稿も呼びかけている。