矢で撃ち抜かれたハートの落書きがついた1745年のラブレターで、マリア・クララ・デ・アイアルデは夫のセバスティアンに「待ちきれないわ」と、一緒にいたい旨を書きつづっている。夫はスペイン人の船員で、植民地ベネズエラとの貿易に従事していた。
同年の後日、M.Lefevre(M・ルフェーブル)と名を書いた、恋するフランス人船乗りは、フランスの軍艦上からブレスト(訳注=フランス西部の港湾都市)にいる女性マリー・アン・オテにこんな手紙を書いた。「砲手が大砲に火をつけるように、ぼくはあなたの火薬に火をつけたい」
それから50年後、レネ・ウィードという名のスリナムにいた宣教師は、母国ドイツに宛てた手紙で、公海が戦場になったため母国からのニュースが何も届かなくなったと心細さを訴えている。「フランスに拿捕(だほ)された2隻の船舶に、おそらく私宛ての手紙が積まれていたはずだ」
これらは、どれ一つとして宛先に届かなかった。英国の軍艦が1650年代から19世紀初期までの戦争期間中、商船に積まれていたこうした手紙やさらに多くの品々を強奪したからだ。
カリブ海地域の砂糖、バージニアのたばこ、ギニアの象牙、アメリカ大陸に向かう奴隷たち。船に積まれたもろもろは戦争の略奪品になったが、一方で文書類はその押収が正当な戦利品だったとする法的証拠として、ロンドンのいわゆる「プライズコート(戦利品審検所)」に山積みで保管された。
以来数世紀にわたり、約3万5千隻の船舶から押収された未配達の手紙で膨らんだ箱は、英国政府の保管庫に放置されてきた。そこは分捕った書簡を収蔵しておく、忘れかけられた配達不能郵便物専門のオフィスのような場所だ。
分類が不十分でおおざっぱにしか目録化されていないが、「プライズペーパー(戦利品文書)」として知られるようになった文書類は今、「失われたお宝」として存在を明らかにしつつある。英国立公文書館のアーキビスト(訳注=保存価値のある情報を収集し、整理・管理し、閲覧できるようにする専門職)とドイツのカール・フォン・オシエツキー大学オルデンブルク(訳注=通称は「オルデンブルク大学」)の研究チームが、コレクションを分類し、目録化し、デジタル化する共同プロジェクトに取り組んでいる。
それは、帝国諸国が台頭した時代の個々人の暮らしや国際通商、そして国家権力に関する機微を浮かび上がらせる。
このプロジェクトは今後20年続くことが見込まれ、少なくとも19の言語で書かれた計16万通超の手紙や数十万点の文書のコレクションにオンラインで自由にアクセスして簡単に検索できるようにすることを目指している。
文書類の多くは何世紀にもわたって読まれることなく、多くの手紙は封印され未開封のままだった。
「植民地行政官ではなく、国外にいる一個人としての男性や女性、さらには子どもまで、とても多くの人たちの生の声がたくさん見つかる」。プライズペーパー・プロジェクトを指揮するオルデンブルク大学の歴史学者ダグマー・フライストは、そう言っている。
「プライズペーパーは、他の宗教団体や奴隷にされた人たちとの社会的な交流や、儀式や伝統についてつまびらかにするだろう」と彼女は言い、「(当時の)日々の暮らしを理解する手掛かりになる」と付け加えた。
植民地の通商に関する文書がコレクションの大部分を占めている。商品の送り状、契約書、船荷証券などである。植民地における奴隷を使った農園の管理者から、欧州にいるオーナーや投資家に向けた報告書類も多く見つかっている。
しかし、切々とした個人的な文書もある。18世紀のことだが、拿捕(だほ)された商船に乗っていたドイツ人の船員は、娘の洗礼式用に詩を書き写していた。欧州宛ての1通の手紙には、新しい靴が欲しいとして、サイズが合うよう本人の足の輪郭が描かれていた。
スペイン人の戦争捕虜たちに宛てた手紙の束には、カナリア諸島のテネリフェ島にいる妻や子どもたちからのものがあり、戦争中に1人で生計を立てる苦労について訴えていた。テネリフェ島の疫病の発生についても、こまごまと描写されている。「頭の痛み、わき腹の激痛、気持ちの落ち込み、胃の嫌悪感から始まった」
アーキビストとボランティアのチームは文書類の分類を始めた。その文書類の一部はまだ、ススや油に覆われていたり、1800年代のロンドンの不潔な空気の臭いがしたりする。折り目などのしるしを照合することで、バラバラになった紙をそろえることもあった。
英国立公文書館の保存修復担当者が収蔵品をきれいにして保存する複雑な作業の様子を、ドイツ歴史研究所ロンドン(GHIL)を通じてプロジェクトに雇われた写真家2人が詳細に記録している。
「これは古文書の荒れ野のようだ」と国立公文書館チームを率いるアマンダ・ベバンは言う。「私がこれまでのキャリアで行ってきた仕事は、すべて、すでに整理され、識別され、番号が振られている文書を対象としていた」
ベバンは最近、収蔵品の箱をこじ開け、商船ゼノビア号に積まれていた郵便物袋を取り出した。この船は、1812年の米英戦争中にフランスからニューヨークに向かう途上で拿捕された。袋の中には、まだ蠟(ろう)で封印された数十通の手紙が入っていた。いずれも宛先は米東海岸側の各地になっていた。ボルティモア、ボストン、チャールストン、ニューヨーク、フィラデルフィアだ。
プロジェクトの責任者フライストは、最初にオランダの歴史家たちからこのコレクションのことを聞いた。彼らは、オランダ語の文書類を選別してデジタル化していた。2011年から2013年にかけて放送されたオランダのテレビ番組「Letters Over Water(水上からの手紙)」は、数世紀前に輸送途中で強奪された郵便物の差出人の子孫たちを探し当てた。
フライストと彼女のチームは、南ロンドンのキューにある国立公文書館に通いはじめた当初、手当たり次第にアーカイブボックスを選び出して、その中身に驚嘆した。フライストによると、アーキビストが何通かの手紙を開封したとき、突然押収されたために消されずに残っていた「黒板」(訳注=手帳に挟まれていた小型のもの。写真参照)への書き込みを見つけ、「電流が走ったようだった」と言う。
「驚いたのは、ある時点で開封された手紙でも、折りたたまれた当時の『紙の記憶』が保たれていることだった」とベバンは言う。「それらの手紙はとても複雑なパターンで折りたたまれていた」
時には、一つの封筒から数珠(じゅず)つなぎに封入された手紙などが出てくることもあった。親戚や友人に渡してもらうために追加したものだ。そうした封筒の中身を取り出して広げると、まるでマトリョーシカ人形のようだった。年老いた両親への手紙がきょうだいや配偶者あての手紙に巻きつけられていたり、子どもたちへの短いメモが同封されていたり、指輪のような小さな贈り物がこっそり入っていたりした。一粒のコーヒー豆が入っていたこともある。
これまでに、研究チームはオーストリア継承戦争(1740~48年)の間に押収された文書類を詳細に調べ上げたが、その他の戦争に絡むファイルについてはまだざっと見ただけだ。
「まだすべてを調査したわけではないので、さらに多くのものが見つかるはずだ」とベバン。「私たちは、一つひとつ箱を開けていくけれど、何が見つかるかはわからない」と付け加えた。(抄訳)
(Bryn Stole)Ⓒ2023 The New York Times
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