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沖縄にとっての「記録」とは 県公文書館を訪ねて考えた

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米国立公文書館でコピーして持ち帰った資料を見せる仲本和彦さん

沖縄県公文書館の外観。誰でも無料で入館できる=写真はいずれも高橋友佳理撮影

島尻郡南風原町。赤瓦の寄せ棟造りの立派な建物の中には、米国立公文書館(NARA)などから収集した大量の沖縄統治に関する米政府資料のコピーが保存されている。文書約400万ページ、写真約2万6000枚、映像1000本弱。その収集を担った一人がアーキビストの仲本和彦さん(52)だ。元々中高一貫校の英語教師だったが、米国の大学院で公文書管理を学び、故大田昌秀元知事の肝いりで設立された沖縄県公文書館の専門員として米国に滞在。2006年春に帰国するまでの9年間、米軍の沖縄統治にかんする資料の収集に明け暮れた。

米国立公文書館でコピーして持ち帰った資料を見せる仲本和彦さん

2階から4階までにわたる書庫を案内してもらう。分厚い扉の先にある書庫の棚には、米国関連資料がずらりと並んでいた。「米軍が最も恐れた男」としてその人生が映画にもなった人物についての資料の束もあった。沖縄人民党書記長で後に那覇市長になる故瀬長亀次郎(1907~2001年)だ。瀬長を監視していたことをうかがわせる「エージェント リポート」などの写しもあった。

仲本さんは、元々は歴史学に興味があったという。だが、米国で記録管理について学ぶうちに、「米国の記録管理のすさまじさを伝えたい」と思うようになった。「米国において記録がないのは歴史がないのと同じ。また、強烈な民主主義の意識に驚いた」。自分が集めた「宝の山」から本や論文が世に出ることに複雑な気持ちが全くなかったわけではない。しかし「アーキビストは自分の興味のある資料だけに関心を持ってはいけない。その仕事は地図作りに似ている。一般の利用者にいかにアクセスしやすくするかを考えて目録を作る。それは鉱山の探査隊でたとえると『フロンティア』のようなもので、わくわくする作業でした」と話す。

那覇市内の「不屈館」を案内する館長の内村千尋さん。所狭しと日記や演説原稿、手紙などが展示してある

故瀬長亀次郎が残した資料を中心に、民衆から集めた資料を展示する「不屈館」も訪ねた。政治家になる前は新聞記者だった瀬長は、日記をはじめ、日々のあらゆる出来事を記録に残していた。現在館長を務める次女の内村千尋さん(72)によると、瀬長は大事なことを記録するときには、懐中時計を取り出して時間を確認して記した。一日に1000~3000字書くのが普通だったという。日記だけで200冊、新聞のスクラップで800冊あり、その一部が展示されている。

「日記は個人的なものだと思っていたけれど、読み始めたら、沖縄の歴史が克明に記されていた。これはしまい込んでおくのではなく、公開しないといけないと感じました」。2013年に開館し、県外からの旅行客や修学旅行生など1カ月に平均600人ほどが訪れているという。その数は2年前ごろから徐々に増えてきているというが、内村さんは危機感も感じている。「学校では近現代史を教える時間がないといい、県内の子どもが沖縄の歴史、特に戦後史を学ぶ機会が少なくなっている。県公文書館を建てた大田元知事は、沖縄にとっての歴史の重要性を理解し、記録を大切にした。少しでも多くの人たちに沖縄の歴史を知ってほしい」

大田元知事が米国から収集した沖縄戦の写真の数々=那覇市の沖縄戦・ホロコースト写真展示館

それでも、沖縄において、歴史はいまだ生々しさをもって語られている。帰りがけ、タクシーに乗った。雑談を交わすうちに取材の話になり「歴史と記憶」について水を向けると、運転手の男性(62)はこんなことを口にした。「南部の出身だから、親父に『ガマ(自然洞窟)で遊んでもいいけど遺品を取ったり小便をしたりするなよ。そこかしこに仏様が埋まっているんだから』と言われて育ちましたよ」。地上戦が行われた地域では、今でもヤシガニを食べない人が多いという。「当時、埋めるのが追いつかなかった兵士や住民の死体をヤシガニが食べていた。だから、縁起が悪いとされていてね。子どもの頃、家にヤシガニを持ち込んだら、母親にすごい剣幕で怒られましたよ」

言われたことを反芻しながら、「ここでは歴史が終わっていない、地続きなんだ」と実感した。その感覚は、振り返ると、欧州で感じたものと似ていた。