記録を重視する米国。その記録管理のトップに立つ国立公文書館(NARA)のワシントンDCにある本館(Archives1)には「自由の憲章」と呼ばれる三つの重要文書が、神殿のようなホールに展示されている。
7月中旬、ワシントンDCを訪れた記者は、事前に申し込んでいた「アーカイブツアー」に参加した。ロタンダと呼ばれるドーム状のホールに入ると、天井まで約23メートルと高く、薄暗い。親子連れやボーイスカウトの集団など、数十人の老若男女がガラスケースに入った「何か」をのぞきこんでいる。ここにあるのは、合衆国憲法、独立宣言書、権利章典の3文書をはじめとする最重要文書の原本。中央に置かれたケースの中に入った憲法は、両脇に立った「special police」に守られていた。声が響くため、大声で話す人はいない。神聖な空気が満ちているように感じるが、それもそのはず、この建物は「神殿」の雰囲気が出るように設計されているという。
本館で閲覧部門を統括する現役アーキビストのジュリエット・アライ(46)に話を聞いた。
「文書は生きた素材であり契約」
「自由の憲章」はNARAでのハイライト、いわば「ショーのスター」です。自由の憲章とともにロタンダに展示されている文書は、米国人であるということ、私たちの価値観、私たちが理想と考えていることを表現している。私たちアーキビストが文書に向き合うとき、それらは「生きた素材」であり、米国政府と私たちの理想にとって契約であると考える。
ロタンダにある文書は「大きな歴史」だが、NARAには、有名ではないが米国人にとっては変わらず重要な「小さな歴史」がある。家系図などの個人の記録だ。国家の安全やプライバシーのために開示されないものもあるが、アメリカ人が可能な限り、これらの記録にアクセスできることが重要だと考えている。「透明性」と「利用のしやすさ(アクセシビリティー)」だ。それが民主主義の基本であると思う。現在使われている状態の記録には見ることができないものもある。でも、公文書館などに移ってきたアーカイブは、私たちの歴史であり、私たちはそこから学び取る。アーキビストたちは、記録を全く解釈しない。記録を、あるがままの姿で国民に示す役割を担っている。
「記録管理庁」としてのNARAの役割
私は一般向けの公開閲覧を担当する部署にいるが、NARAには連邦政府の省庁などの各機関とやりとりをする部署がある。各機関が適切に文書を残し、NARAなどに移しているかを確認する。連邦政府では、記録の3~5%が永久に保存されるべきとみなされる。私たちは各省庁のレコードマネジャーとやりとりをし、残されるべき記録が残され、スムーズに公文書館に移されるよう、彼らと共に働く。これは信用の問題で、私たちは必要な文書を適切な時期にすべて入手できると彼らを信用しているし、彼らも公文書館に移された記録はきちんと保管されていると私たちを信用している。彼らとの関係性は重要だ。時には省庁にあるはずの文書が隙間に入りこんでしまい、見つからないことはあるが。
70年代に起きたウォーターゲート事件の後、大統領記録法ができ、ホワイトハウスの公務で作り出される文書はすべて政府の公文書であり、合衆国に属するとされた。ニクソン大統領のウォーターゲート事件までは、記録は大統領に属しており、アーカイブに寄贈する形だった。それがカーター大統領以降、法的に私たちのものとなり、ダブルチェックしなければいけないものになった。
「大統領や政府高官から記録を捨てたり隠したりするような圧力があったら?」という質問に対しては、「これは国民の記録である」と言いたい。情報公開法にもとづいて、開示請求の手続きを取ればよい。米国市民は、基本的には、政府が何をしているのか、知る権利があると思う。
私たちアーキビストは記録を解釈しないから、公開された記録を使って人々が何をするかに意見は持ち合わせていない。人々が何を調べていて、なぜ記録が欲しいのかについて、私たちはいかなる判断もしない。私たちにとって、記録は記録のままなのだ。
時折、誰かが「政府の記録が行方不明だ」と言い出すことがある。でも多くの場合、それはNARAの書庫に存在する。そんな時、私たちは「記録は行方不明ではないし、壊されてもいない。ここにあります」と明示する。
もちろん国家の安全や個人情報にかかわるもので開示されない記録もあるが、ここにある記録は米国人だけでなく、等しく世界中のすべての人に開かれている。日本からも、欧州からも多くの人が見に来る。「開放性」が私たちの仕事の大切な部分だ。(構成 高橋友佳理、敬称略)
Juliette Arai
建築会社のレコードマネジャ-、上院議員付きアーキビストをへて、2004年からNARAに。