この事件で興味深いのは、スパイ活動の時期だ。被告のうちの一人、元労組幹部(52)は2004年から逮捕される2023年まで北朝鮮の指令を忠実に実行してきたという。
この期間、韓国では北朝鮮と対峙する保守政権時代もあったが、進歩政権下の2007年と2018年には計4回にわたって南北首脳会談も行われている。特に、文在寅(ムンジェイン)政権下の2018年には4月、5月、9月と計3回も南北首脳会談が行われた。2018年4月に板門店であった会談では、金正恩氏と文在寅氏が2人で話し込む場面があったし、5月の会談ではお互いに親しげに抱擁もして、蜜月ぶりをアピールした。
ところが、北朝鮮は2019年1月24日付の指令文で韓国にいるスパイに「青瓦台(大統領府)や検察庁、統一省など、敵の統治機関に自由に出入りできる人物との関係を深めろ」と命じた。また、同日付で「青瓦台など主要な統治機関の送電網に関するデータを集め、まひさせる作業を進めろ」とも指示している。
朝鮮労働党の元幹部は「これが北朝鮮のやり口だ」と指摘する。
「北朝鮮のある部署が、南北交流を進めているときに、別の部署は全く逆のやり方でスパイ活動をする。縦割り主義の極致が、北朝鮮政治なのだ」という。
日本の公安関係者によれば、事件で指令を送っていた党文化交流局は、日本人拉致などを担当していた党社会文化部(後の対外連絡部)の後身機関で、現在は党統一戦線部の傘下にある。2016年から海外工作員に向けた乱数表放送を再開したほか、2017年2月に起きた金正男(キムジョンナム)氏暗殺事件にも関係しているとされる。
上部機関の統一戦線部はまさに、2018年から2019年にかけて南北や米朝の外交を担当していた部署だ。
北朝鮮では、部下たちが結束して最高指導者に反抗しないよう、様々な仕組みが施されている。例えば、軍事部門では党を代表して思想教育などを担当する総政治局、人事や補給を担当する国防省、作戦を担当する総参謀部が、お互いに競い合うシステムを導入している。
かつて、日本を担当する部署としては外務省のほか、党国際部、党統一戦線部などが入り乱れ、その利権を奪い合った。似たような機能を持つ部署が複数あるうえ、お互いに情報は共有しない。完全な縦割り主義で、すべての情報を知るのは最高指導者とごく少数の側近たちだけだ。
この元幹部が事件で注目したのは、2018年10月16日付の指令文だった。ちょうどこの年の9月18~20日には平壌でこの年3度目となる南北首脳会談が開かれていた。
指令文は「社会全般に、金正恩崇拝の熱狂を最大限に高めるための当面の活動方針を伝える」とし、「(首脳会談で採択された)平壌共同宣言を実施するための大衆的な変革運動の力と能力を最大にすることを中心とした活動を展開せよ」「絶世の偉人(正恩氏)を称賛する社会的な熱気が、国民感情の主流としてしっかりと確立されるように力を注げ」などと訴えた。
元幹部は「いくら閉鎖社会とはいえ、北朝鮮の幹部たちだって、韓国人が金正恩を熱狂的に崇拝することはあり得ないことぐらい、分かっている」と語る。
「この指令の目的は、工作を命じるというよりも、金正恩の歓心を買うことにある。文化交流局の連中は事件のお陰で、自分たちの活動が明るみに出て、むしろ喜んでいるかもしれない。自分たちの忠誠心が証明されたわけだから」
この元幹部によれば、北朝鮮の権力層内での対立は「軍事強硬派」「市場改革派」といった、特定の主義主張に沿っては起きないという。
「文化交流局が持っている強みは、スパイ活動だ。スパイ工作をアピールして忠誠を誓うことが、自分たちの利益になる。スパイ工作に反対する人々とは当然、仲が悪くなる。国として統一した方針のもとに働くという意識はない」
まさに、それぞれが鬼舞辻󠄀無惨に忠誠を誓い、お互いに憎み合う手下の鬼たちのようだ。もちろん、金正恩氏だけがそうだと言うのではない。ワグネルの創設者、エフゲニー・プリゴジン氏とゲラシモフ参謀長やショイグ国防相を競わせたロシアのプーチン大統領、福島第一原子力発電所の処理水放出を激烈に非難する一方で、日中韓首脳会談も模索する中国の習近平国家主席も、みな同類ということなのだろう。