エリ・コーヘンは1924年、地中海に面したエジプト北部アレクサンドリアで8人きょうだいの長男として生まれたユダヤ人だ。48年にイスラエルが建国した後、両親らはイスラエルに渡ったが、コーヘンはエジプトに残り、学業を続け、シオニズム運動に身を投じた。両親らに遅れること8年、57年にイスラエルに渡ったコーヘンは、後にモサドに吸収される情報組織に呼ばれた。
履歴書には「アラビア語、フランス語、英語、イタリア語を自由に操れる」と書いた。出身地のアレクサンドリアは国際都市で、市民の多くが複数の言語を使うことができた。コーヘンはアラビア語のエジプト方言だけでなく、シリア方言も習得したと言っていた。だが、混乱のさなかにあったエジプトで逮捕歴があることを認めた情報組織はアラビア語の文書やラジオを翻訳する係として、コーヘンを採用した。
その後、コーヘンはテルアビブの民間企業に移り、59年に妻のナディアと結婚した。同じ年にモサドはコーヘンに接触し、アラブ諸国で情報収集活動を行う意思があるか確認してきた。弟のアルベルトは「58年にシリアとエジプトが統合され、『アラブ連合共和国』が樹立したためだ。イスラエルを北と南から壊滅させる狙いがあるとみていた。モサドは兄のことをよく覚えていて、白羽の矢を立てた」と語る。
■南米で「裕福なシリア人」装う
59年末にモサドに入局したコーヘンは、数カ月に及ぶ特殊な研修を受けた。記憶力を研ぎ澄ませる訓練を積んだり、イスラム教やアラブ諸国の習慣を学んだりした。61年、最初に滞在したのは、南米アルゼンチンだった。「裕福なシリア人」として振る舞い、アラビア語で「カメル・アミン・サベット」と名乗った。アラビア語紙の編集幹部ら現地のアラブ人社会の上流層にたちまち食い込んだ。その年、シリアとエジプトの「アラブ連合共和国」が統合を解消すると、首都ブエノスアイレスにいたシリア軍の駐在官に「革命」を祝うパーティーに招待されるほどの関係になっていた。
61年末、コーヘンの父が亡くなった。コーヘンはブエノスアイレスからいったんイスラエルに戻り、欧州経由で出生地のアレクサンドリアに渡り、レバノンの首都ベイルートを経て陸路でシリアの首都ダマスカスに到着した。62年1月のことだった。欧州からイスラエルの家族に宛てた手紙には「イスラエル国防省のために、欧州で武器の調達の仕事をしている」と書いた。アルベルトは言う。「私たちは彼がモサドで働いていることも、シリアに行くことも全く知らなかった。国防省で働いていると思っていた」
コーヘンはシリアの首都ダマスカスの大統領宮殿近くのアパートの4階に住んだ。シリアで使っていた「カバーストーリー」(作り話)はこんなものだった。「シリア人の両親の間にレバノンで生まれた。子どもの時に両親とエジプトに行き、アレクサンドリアで育った。3年後にブエノスアイレスに渡り、そこで16年を過ごした。母国シリアを見るために、やって来た」――。
アルベルトによると、コーヘンがシリアに到着してすぐ、ブエノスアイレスにいるシリア人からダマスカスの上流層にコーヘンを推薦する手紙が次々と届いた。コーヘンは独身の大金持ちを装った。「娘と結婚してほしい」という申し出が引きも切らなかったという。シリアのテレビ局のインタビューでブエノスアイレスでの生活を聞かれ、コーヘンは「南米のアラブ人は小規模な商人として仕事を始めたが、今では裕福になり、シリアを支援できる」と答えた。
■まれに見る「人たらし」
コーヘンはほどなく、イスラエルと国境を接し、当時はシリア領だったゴラン高原を訪問した。政府関係者や兵士を除けば、シリア人さえ立ち入りを禁じられた軍事区域だった。なぜ、一市民だったコーヘンが入ることができたのか。アルベルトによれば、シリア軍高官がコーヘンに特別に許可を与えたとみられている。「彼は(当時まだ30歳代後半と)若く、ハンサムで、裕福だった。誰もが彼と友達になりたがった。彼はまれに見る、『人たらし』だった」
シリアとイスラエルの国境地帯は当時、軍事的に緊張していた。コーヘンはシリア軍の部隊展開や配備状況などをモサドに送った。ゴラン高原に植えられた木々の位置情報を克明に送り、戦争が始まるとイスラエル軍はそれを目印に攻撃を行ったという逸話もある。ダマスカスでの3年に及んだ情報収集活動で、政府や軍の高官、民間の有力者と強固な関係をつくることに成功した。シリア国防相のアドバイザーの役割を果たしていたとされる。この間にイスラエルに送られた重要な情報は、ゴラン高原をシリアから占領した67年第3次中東戦争に役立ったと言われる。
だが、順風満帆に見えたスパイ活動は突然、終わりを告げる。65年1月、コーヘンはシリアの治安当局に逮捕された。アルベルトによると、スパイの疑いをかけられた理由は諸説ある。米政府の協力者として活動したことが発覚し、処刑されたシリア人がコーヘンの自宅に出入りしていたこと、無線通信を頻繁に使っていたことが探知されたことのほか、ゴラン高原を訪れた際の写真を見たエジプトの情報当局者がアレクサンドリアにいたときのコーヘンと同一人物と気づいたという話もあるという。
■家族の誰も知らなかった
コーヘンは3年の間に5度、シリアから欧州経由でイスラエルに戻ったという。半年に1度ほどの頻度だ。だが、コーヘンは妻のナディアを含む家族の誰にもモサドのために働いていること、シリアにいることを伝えなかった。コーヘンが休暇で戻っている間に一度、ナディアが固く封じられた封筒を開けてしまった。中の紙にはダマスカスの住所が書かれていた。「あなたは私にうそをついているの?シリアにいるの?」と問い詰めるナディアに、コーヘンは「ダマスカスだって?本気で言っているの」と煙に巻いたという。
コーヘン逮捕という衝撃的なニュースが隣国シリアから伝わると、コーヘンの家族は悲しみに暮れた。失意のどん底にいたナディアの家に家族や親類が毎日集まってきた。「母親は毎日、朝から晩まで小さなラジオに耳を澄ませていた。エリの身に何が起きるのか、私たちは神経をピリピリさせていた。私たちはとても悲しく、また怒っていた。モサドとは毎日連絡を取り合っていた。彼らはシリアとの解放交渉に楽観的だった。私たちはそれを信じるしかなかった」。アルベルトはそう振り返る。
だが、家族の願いもむなしく、コーヘンは65年5月、公開処刑に処せられた。その当時、4歳と3歳、0歳の小さな子どもが3人いた。死の直前、コーヘンは「ナディアには私を許し、あなた自身と子どもたちの面倒をみてほしい。あなたと子どもたちに私の最後のキスを送る」という遺書を書き残していた。アルベルトによれば、遺書はフランス語とアラビア語で書かれ、「エリ・コーヘン」という実名のサインはイスラエルの公用語ヘブライ語で書かれていたという。
それから半世紀以上、コーヘンの遺体は家族のもとに戻ってきていない。だが、2018年、コーヘンの形見の腕時計がイスラエルに戻ってきた。モサドはその経緯を詳しく明らかにしていない。
■短期集中連載「イスラエル情報機関「モサド」の素顔に迫る」
- #1 私はウィーンから証拠を持ち帰った 秘密作戦を指揮したモサド元最高幹部の証言
- #2 導かなければ民は滅びる 「最強の情報機関」モサドのモットー
- #3 まれに見る「人たらし」 「伝説のスパイ」の弟が明かした壮絶人生
- #4 イランとイスラエルが「盟友」だった時代があった
- #5 招待状でスカウトされて25年 元モサド幹部が振り返る「インテリジェンス」