韓国大統領を狙った北朝鮮のテロ事件 実行犯の釈放を働きかけた韓国高官がいた
爆弾を仕掛けたのは、北朝鮮特殊部隊出身の3人の工作員だった。実行犯の一人、カン・ミンチョルは無期懲役刑を受け、2008年5月に獄死した。最近、事件の背景やカンの生涯を描いた羅鍾一元駐日大使の著作が「ある北朝鮮テロリストの生と死証言・ラングーン事件」(集英社新書)として日本語出版された。事件が現代に残した教訓とは何か。羅元大使へのインタビューを中心に考えた。(牧野愛博)
羅氏は、全斗煥政権が多数の韓国市民を殺傷した光州事件(80年)が、ラングーン事件を引き起こしたと解説する。「北朝鮮の軍事力と韓国の革命勢力をあわせて、初めて統一が達成されるというのが北の戦略だ。光州事件をみて、北朝鮮は黙っていられなかった」
北朝鮮は韓国に軍事侵攻する代わりにラングーン事件を引き起こした。「北朝鮮には光州事件当時、韓国を圧倒するだけの力がなかった。米軍も空母を2隻派遣していた。北朝鮮にやれることはテロしかなかった。全斗煥氏は当時、韓国でも人気がなかったから、全氏を殺せば韓国は混乱し、北の人気も上がるかもしれないと考えたのだろう」
羅氏によれば、北朝鮮はラングーン事件以前、カナダやフィリピンでも全氏を殺害するテロを計画していた。
北朝鮮は今年1月の朝鮮労働党大会で党規約を改正し、党の統一戦略から「民族解放民主主義革命」という文言を削除した。韓国の文在寅政権のブレーンたちからは「北朝鮮が赤化統一を諦めた」という声も上がった。羅氏は「韓国の一部には、国家保安法の廃止を求める人々がいる。こうした人々を支援し、保安法廃止の流れを作るための動きだろう」と語る。「北朝鮮は歴史をねじ曲げ、経済も失敗し、国際社会での役割も果たせていない。唯一の脱出口が統一だ。北朝鮮の戦略に変わりはない」
北朝鮮はラングーン事件以降も、日本人拉致など数々のテロを実行した。近年でも2017年2月、マレーシアの空港で金正恩氏の異母兄、金正男氏を暗殺する事件を起こした。「北朝鮮は軍事国家だが、在韓米軍が駐屯する韓国に対して軍事行動を取るのは難しいから、テロに頼っている」
韓国の国防白書は北朝鮮の特殊部隊員を約20万人と推計する。このうち、韓国の主要都市などに浸透して、要人暗殺や社会インフラの破壊、社会的混乱を起こす特殊部隊員が12万人、軍事境界線近くや平壌で防衛任務にあたる軽歩兵が8万人いるとみられている。「組織を作れば、維持しなければならない。テロを起こすのは、組織を維持する理由を作るためでもある。ひどい乱用だと思う」
羅氏は著作のなかで、ラングーン事件実行犯の一人で、ミャンマーの刑務所で25年暮らした北朝鮮の工作員、カン・ミンチョルの人生にも焦点を当てた。カンは自分を捨てた北朝鮮を恨み、故郷に残した家族を心配し、韓国に行くことを願っていたが、ついに果たせず、異国の土になった。羅氏がラングーン事件の本を書こうと思った動機もここにあった。
「カンは凶悪なテロ実行犯だが、果たして事件の責任を、この若者1人だけに押しつけていいのだろうか。金正日総書記や全斗煥大統領たちは何の責任も取らなかった。そればかりか、事件直後から南北は首脳会談を模索し始め、全氏と金日成主席はお互いをたたえ合った。獄につながれたカンには何も関心を注がなかった」
羅氏は2013年、この著作を韓国で出版した。当時、金大中政権で一緒に政府で働いた元高官たちから、非難の声が上がったという。引き受けてくれる出版社もなかなか見つからず、元の原稿を2分の1から3分の1にまで圧縮して、ようやく出版にこぎ着けた。「(進歩政権になって)太陽政策を推進し、南北の往来も盛んになったというのに、カンの話を誰もしたがらなかった。カンはまるで、(無実の罪で14年間も獄中生活を送った、フランス小説の主人公)モンテクリスト伯のようだった」
カン・ミンチョルは1987年に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯だった金賢姫氏のことを知っていた。面会した韓国大使館関係者から手に入れた金賢姫氏の自伝を繰り返し、読み返していたという。自分も金賢姫氏のように、韓国で新しい人生を送りたいと願っていたようだ。
羅氏は国家情報院に在職中、カン・ミンチョルの釈放をミャンマー政府に働きかけたことがある。カンは無期懲役刑だったが、ミャンマー政府の回答は「韓国でも北朝鮮でも、政府機関が受け入れるなら釈放する」だった。北朝鮮はラングーン事件との関係を否定し、カンを無視した。羅氏がカンの釈放と身柄引き受けを働きかけたが、韓国政府もカンの受け入れを認めなかった。羅氏は「韓国と北朝鮮は、1人の若い命を軽く扱った。この事件への徹底的な反省なくして、皆が望む形での南北統一などできない」と語る。
文在寅政権は金正恩氏との対話に熱心だが、その一方で正恩氏を批判するビラを風船につけて韓国から北朝鮮に飛ばす行為を法律で規制している。脱北者や欧米の人権団体から「表現の自由の侵害だ」という非難の声が上がっている。
羅氏は「金正恩氏ばかりに気を取られず、もっと北朝鮮の市民たちにも気を配るべきだ。例えば、北朝鮮には大勢の結核患者がいる。質の良い抗生剤を支援すれば大勢の人が助けられるのに、十分に行き渡っていない」と語る。
北朝鮮は最近、金正恩体制を政治的に批判する「反社会主義行為」に加え、欧米や韓国などの文化を楽しみ、市場経済活動を行うなどの「非社会主義行為」まで取り締まっている。金正恩氏自身、カリスマ性や人脈が不十分な「弱い独裁者」であるようにも見える。
羅氏は「北朝鮮は元々、異常な国だ。社会主義なのに、(北朝鮮最高指導者の直系である)白頭山血統だという理由だけで、政権にずっとしがみついている。歴史もウソを積み重ねてきた。経済もうまくいっていない。それでも70年以上政権を維持してきた」と語る。そのうえで、「ただ、若い世代はどうだろうか。MZ世代(ミレニアル世代とZ世代)と呼ばれる人々に、韓国ドラマの視聴を禁じても受け入れるだろうか」と指摘する。
羅氏は「北朝鮮は核兵器などの大量破壊兵器を保有している。もし、政権が破綻すれば、暴発するかもしれない。そのためにも、韓国と日本は協力するべきなのだ」と語った。
ラ・ジョンイル 1940年、ソウル生まれ。英・ケンブリッジ大で政治学博士号取得。金大中政権で、国家情報院第1次長(海外・北朝鮮担当)、盧武鉉政権で、大統領秘書室国家安保補佐官、駐日大使などをそれぞれ歴任した。