図書館の分館に本を増やす、28万5000ドル(約4200万円)」「公園に遊び場を新設、42万5000ドル」「小学校近くの道路に街灯と横断歩道を増やす、9万540ドル」……。
カントリーミュージックで有名な米国テネシー州ナッシュビル市。8月下旬の夕方、音楽産業がさかんな「ミュージック・シティー」のダウンタウンにある州立大学の講義室で、さまざまな年齢、人種の人たちが一人1項目ずつ、お金の使い道を読み上げていった。普通の市民が市の予算編成に携わる「市民参加予算」の項目案だ。
彼らはボランティアの「代表委員会」。6月から週に1度の会合を重ねてきた。
この日は最後の会合。いつものようにピザやサラダが出てリラックスした雰囲気だ。ようやくまとめた項目案について、お祝いやまとめの意味もこめて読み上げた。彼らの表情は誇りと満足感に満ちているようにみえる。
委員たちは、20代から70代の白人、アフリカ系、移民などで、職業もさまざまだ。建設業者など利益相反になる可能性のある人は参加できない。
最年少のカーター・バーネットさんは政治学を専攻する20歳の大学生。「社会を良くすることに役立ちたかった」と応募した。音楽プロデューサーのアダム・バハマスさん(32)も「地域活動に関心があって」と参加。この委員会で、市民が寄せた1321の提案を、読み上げた35案に絞り込んだ。
この35案に対して10〜11月に14歳以上の住民による投票があり、12月に予算に盛られる事業が決まり、翌1月から実行される。
市民参加予算には、代表委員会メンバーの他にもボランティアが参加している。公募案を絞り込む代表委員会の前の2〜5月には「運営委員会」が、予算案の公募から実行までの全体の進め方(ガイドライン)を話し合って決めた。
運営委員会の委員長はジェイソン・スパークスさん(46)。普段は、医療関連の企業に勤めており、地域選出の市議に勧められて委員会に参加した。
運営委員会でガイドラインの内容を詰める議論は細部に及んだ。たとえば、提案できる人を「住民」と表現した。
「ナッシュビルには移民が多いから、提案はアメリカの市民権を持っていなくてもできるようにした。移民の委員がいたんだけど、移民という表現は強制送還の対象のように感じると。考えてみたこともなかったので驚いた」。スマホや電話で提案できるようにもした。
スパークスさんら委員は積極的に市民参加予算の周知にも努めた。彼は八つの高校に出かけて説明。「高校生からは、口々にこれを提案したい、と言われた。この取り組みは、政治参加へのハードルを下げ、ドアを開けると実感した」
エクアドル出身の委員はラテンコミュニティーに、トルコ出身者は中東関係のイベントに出かけて提案を呼びかけた。
結果として1321もの提案が寄せられた。スパークスさんは委員会での議論を「『lightning in a bottle』(瓶で雷を捕まえる=奇跡的なという意味)だった」と振り返った。「実に多様な属性のいろんな視点の人が集まって、だれしもが他の人の意見をいかに生かすか尊重していたから」
市民参加予算は、1989年のブラジル・ポルトアレグレ市の取り組みが最初とされ、米国ではニューヨーク市やシカゴ市などでも行われている。自治体の予算や政策は市民生活と深く結びついているが、身近に感じる機会がない。それを自分たちで決めてもらう狙いだ。
ナッシュビルで始まったきっかけは、市長室の担当スタッフだったファビアン・ベドゥネさん(63)の市議時代、10年ほど前にさかのぼる。
「ワシントンでの全米の市議の会合で、市民参加予算の話を聞いたんです」。アルゼンチン生まれのベドゥネさんは、母国で軍事政権を経験し、1990年に米国にやってきた。
「軍事政権時代に私の兄は行方不明になった。だから民主主義の貴重さが身にしみていますが、米国に来てみると、人々は民主主義の力を行使していない。投票率も低く、歯がゆくて。この取り組みは、その力を市民に取り戻す良い機会になると思った」
現在の市長が2019年に当選してベドゥネさんが市長室のスタッフとなると、市長は市民参加予算の導入を決めた。
2021年には試験的に発展が遅れている北部地区を対象に、200万ドル(約2億9200万円)を割り当てた。住民5万7000人ほどの地区で、500ほどの案が寄せられた。ボランティアの代表委員会が案を絞り込んで住民が投票。市議会での賛成を得て、バス停留所の日よけやコミュニティーセンターのジムの空調、子どもの遊び場などがつくられた。
2022年には800案ほどが集まった。「市民が市役所を責めるだけではなく、一緒に政策を作っていこうという姿勢になった」とベドゥネさん。今年は対象を全市に広げ、予算額は1000万ドルに拡大された。
予算を決めるプロである市議は、市民が提案する予算をどう見ているのだろう。
2期目の市議のズルファット・スアラさんは「市と市民の間に信頼関係ができる。それが市民参加予算の力。良い政府は、市民の声に耳を傾けるもの」と評価する。
しかし、市の予算総額に占める市民参加予算の割合は1%もない。「もちろんまだ始まったばかりで、無限に広げられるわけでもない。でも、地域の人々にとってはバス停の日よけとか、ジムの空調は小さいけれどとても重要なこと。市民が参加する予算は、人々を民主主義に引き入れる大切な道具。少しずつ進めていければいい」
予算総額からみればほんのわずか。その成果も、ささやかなもの。だが、その地域の住民で、代表委員会に参加した男性は「歴史的に見捨てられてきたといってもいい地域に住む私たちにとってはとても意味のあることだ」と語った。