1. HOME
  2. World Now
  3. 性別と名前の変更 自分の意思だけで可能に 自己決定法案とトランス差別に揺れるドイツ

性別と名前の変更 自分の意思だけで可能に 自己決定法案とトランス差別に揺れるドイツ

ニッポンあれやこれや ~“日独ハーフ”サンドラの視点~ 更新日: 公開日:
連邦内閣の閣議後に自己決定法案について記者会見するドイツのリサ・パウス家族・高齢者・女性・青少年大臣
連邦内閣の閣議後に自己決定法案について記者会見するドイツのリサ・パウス家族・高齢者・女性・青少年大臣=2023年8月24日、ロイター

ドイツで今年8月、トランスジェンダーの人が自己申告により法的な性別および名前を変更できるようになる「自己決定法案」(ドイツ語:Selbstbestimmungsgesetz)の法案が閣議決定されました。連邦内務省によると、法律は2024年11月に施行される予定とのことです。

今までドイツでは身体と心の性別が一致しないトランスジェンダーの人が法的に性別を変更するためには2名の医師による判定書が必要で、最終的に当事者が性別を変更できるか否かは裁判所が決定していました。

今後は、戸籍役場で「本人の意思のみ」で性別の変更が可能で、医者の診断や裁判所の判断は不要です。保護者の同意があれば、性別の変更は14歳から可能です。ただ保護者が反対している場合でも性別の変更は不可能というわけではなく、最終的には家庭裁判所が判断します。

ドイツを代表するフェミニストが法案に反対する理由

ドイツでは「マイノリティーの権利がようやく認められる」とこの法案を歓迎する雰囲気があるなか、懸念や反対の声も少なくありません。

意外なところではドイツを代表するフェミニストであり、ドイツ連邦功労十字勲章の受賞歴があるアリス・シュヴァルツァー(Alice Schwarzer)氏がこの「自己決定法案」に反対しています。シュヴァルツァー氏は1970年代に女性が男性と同じく就労できるよう闘ってきました。女性が中絶する権利が得られるようよう長年活動し、シュヴァルツァー氏が1970年代に立ち上げたフェミニスト系の雑誌Emmaは今に至るまで何かと話題になっています。

ドイツの著名なフェミニストで作家のアリス・シュヴァルツァー氏=2022年3月3日、ロイター

シュヴァルツァー氏は、もともとはトランスジェンダーの人に対して寛容な立場でした。1984年に同氏はトランス女性について「トランス女性は我々女性のもとに『降りてきた』姉妹です」と発言しており、「本来は男性だった人が女性になることで、当事者はその社会で様々なものを失う」とし、トランス女性とシス女性(生まれた時と現在の性別が一致している女性)を同志とみなしていました。

そんな彼女が「自己決定法案」に反対をするのは、簡単に性別を変えることができる今の法案だと「覚悟のないまま性別を変更する人が増えるのではないか」という懸念からです。 

シュヴァルツァー氏はシュピーゲル誌(2023年、35号)の中でこう語っています。「昔だったら『女性らしいファッションや生き方』を好まない女性に対して、進歩的な考え方をする人々が『女性だって、男性みたいに自由に生きてもいいんじゃない?』とアドバイスすることが多かった。ところが『トランスジェンダーであること』がトレンドとなっている今はそうではありません。『女性らしく生きたくない女性』に対して、周りが安易に『だったら男性になればいいんじゃない?』と薦めてしまうのです」

ムスリム女性の「憩いの場」かトランス差別か、女性専用浴場で騒動

シュヴァルツァー氏は、今後、生物学的には男性である人が「女性が仕事の場で活躍できるために設けられたクオーター制」を利用したり、女性用シェルターに入ったり、女性用サウナに入ったりすることについて懸念を示しています。「自己決定法案により、結局誰が女性なのかが曖昧になってしまい、フェミニズムが危険にさらされている」と話します。

後者については今年5月にベルリンのクロイツベルグ地区にあるトルコ系の公衆浴場「ハマム」で騒動がありました。この浴場は女性専用で、ベルリンのイスラム教の女性の憩いの場となっていました。

ハマムのイメージ=gettyimages提供
ハマムのイメージ=gettyimages提供

男女で空間を分ける戒律が厳しいイスラム教徒に配慮した「完全な女性サウナ」ですが、このハマムが近年のドイツの流れに考慮し「月に1度、トランスジェンダーやノンバイナリーの人も入浴できる日」を設定しました。ところがそうではない日にトランス女性がハマムを訪れたのです。

施設側は彼女を受け入れましたが、トランス女性は入り口の受付で先客から「男性器がある場合、その部分を隠して入浴してください」と注意を受けます。トランス女性は受付ではこれを受け入れたものの、実際に入浴をした際には自分の男性器を隠さなかったとのことです。前述のシュピーゲル誌によると、その日、男性器のある人が自分たちのスペースに入ってきたことにショックを受け泣き出す女性、怒る女性、またトランス女性の肩を持つ女性らがそれぞれに感情をあらわにし、怒鳴りあいに発展し現場は混乱しました。

立ち去らないトランス女性とその支持者に困惑した施設側は警察を呼びますが、トランス差別に敏感になっているドイツではこの一連の流れがその後、「トランスジェンダーの人に対する差別」だと問題になりました。

報道によると、このトランス女性は「あなたは本当の女性ではない」と言われたことを侮辱的だと感じたそうです(ハマムの従業員はこの発言をしたこと自体を否定)。「性器を隠せと言ったこと」「立ち退きを迫ったこと」また「トランス女性が最後に『お金を返して』と言ったのに施設側がそれに対して応じなかったこと」などが問題視されました。

これを受けハマムは謝罪し、新たな価値観の浸透には時間がかかるかもしれないけれど今後はトランスジェンダーにオープンな施設でありたいとしています。

 考えさせられるのは「あるマイノリティーの権利を認めることで、別のマイノリティーの権利が侵害される可能性がある」という点です。トランス女性が社会の中のマイノリティーであるように、時に厳しい宗教的な戒律の中でドイツで生活するイスラム教徒の女性たちもまたマイノリティーです。イスラム教徒の女性は「男性器がある人」と一緒に入浴することはできません。ハマムに通っていた女性たちは「憩いの場」を奪われたという見方もできます。

性的アイデンティティーに沿った施設が使えるドイツ

トランスジェンダーの権利の話になると、日本ではよく「トイレの問題」が話題に上がります。日本では身体が男性の人が女性用トイレを使うことに抵抗を持つ人が少なくありません。ドイツの場合は「一般平等待遇法」(ドイツ語: Allgemeines Gleichbehandlungsgesetz)があるため、自分の性的アイデンティティーに沿う方のトイレを使用することが可能です。たとえば「心は女性だけれど身体は男性」のトランス女性が女性用トイレを使うことに問題はありません。

ドイツの更衣室やサウナについては基本的に「誰を入館させるか」の判断は施設の経営者に委ねられています。ただ一般均等待遇法は「誰一人取り残すべきではない」としているので、施設側はそれに沿った判断を下す必要があります。もし「不当に入館を拒否された」と感じる人がいれば、施設に対して訴訟を起こす可能性もあります。

「性別を好き勝手に変えるのでは」という誤解

ドイツの「自己決定法案」に反対する人の中には「自分の気分次第で好き勝手に性別を変えられては困る」と言う人がいます。

ドイツでトランスジェンダーに対する理解が深まってきたここ数年の間に、確かに裁判所に性別の変更を申請した人が増えました。

写真はイメージです=gettyimages提供
写真はイメージです=gettyimages提供

シュピーゲル誌によると、ドイツでは2015年に1648人が性別の変更を申請しましたが、2021年には3232人が申請をしています。「自己決定法案」により今後は裁判所を通さなくてもよくなり、申請手続きが簡素化されるため「気分次第で変更をする人が出てくるのではないか」と考える人は多いのです。でも性別の変更を申請してから、それが認められるまでは3カ月かかり、いったん性別を変更したら、その後は1年待たないと新たな変更の申請はできません。

今まで自分の性的アイデンティティーについて語れなかった人が、社会の様々な制約がなくなりつつあることで、自分のアイデンティティーについて発信することは喜ばしいことだと考えます。自分の心の声に忠実になったとき、当事者が「法的にも(自分の心と同じ性別を)認められたい」と感じることは自然なことです。全ての人が幸せを感じる社会を目指さないと、社会全体がよい方向に向かうことは難しいと思います。

今までドイツでは性別変更について「専門家」(医者)や「裁判所」の見解が必須でしたが、今後は当事者の意思「のみ」に委ねられることで、様々な問題が発生する可能性は確かにあります。それでも社会としては一歩大きく前進したといえるでしょう。

サンドラ・ヘフェリンさんが感じる「ハーフ」の生きづらさ 日本とドイツのマルチルーツ視点から