返ってきた宿題の答案に、まだ教えていないはずの言葉が並んでいた。滋賀県立高校の英語教師だった築地原(ついちばる)尚美さん(49)は、生徒を前に大げさに驚いて見せた。
「あれ、こんな用語を知っているの?」。ばつが悪そうな生徒の様子を見て、AI翻訳を使ったのだな、とぴんときた。もういまから5年前の出来事だ。
すでに生徒たちはスマホを持ち、AI翻訳を日常的に使える環境にあった。だから英作文は、宿題では出さず、教室でテストをするしかなくなった。こうした環境の変化を感じ、英語教育も変わる必要があるのでは、と考えるようになった。
築地原さんは2020年にAI翻訳を使った英語教育を研究しようと大学院に進学した。しだいに「語学の勉強は、反復が重要。やる気さえあればどこまでもつきあってくれるAIはお金をかけずに学べる強力なツールになる」と確信を深めた。いまは、龍谷大学(京都市)などで講師を務める。
6月下旬の同大の2年生の英語の授業では、洋服の好みについて英作文を書くことを課題にした。授業では、DeepLなどのAI翻訳とChat GPT、さらに添削機能を搭載する、立命館大学の大学院生が開発した英語学習のソフトを使えるようにしている。全文を翻訳するのではなく、辞書代わりに必要な表現を探ったり、書いた英作文について添削機能で改善点を指摘してもらったりして、自律的に英作文の精度をあげることを目指す。
八木唯佳さん(20)は予習として自分で英訳し、授業中にわからないところをこのソフトを使って調べている。「使える表現の幅が広がる。英作文をするとき、文法、構文の面で助けてもらっている」
英語が苦手という水原涼太さん(19)は日本語の文全体をそのままAI翻訳にかけて英訳してしまっては何も身につかないと自覚している、と苦笑いする。「構文の骨格を作ってくれて助かるが、自分で考える割合が減っていると思うときもある。英語力をあげるには使い方次第かな」。築地原さんは、自ら書いた英作文をソフトに採点させて結果を報告させるなど、一度は自分で英訳するように課題の出し方に工夫を重ねる。
英語のカリキュラムが大学より固まっていると言われるのが中学・高校だ。場面に応じたAI翻訳の使用を認めているのが、私立順天高等学校(東京都)の浅輪旬教諭(31)だ。「『AI翻訳を使わないで』というより、どうやって使うのかの意識づくりが重要です」
例文が複数出てくる辞書と違い、AI翻訳は訳が一つしか出てこないこともある。このため生徒たちは文脈にあわなくても、AI翻訳で出てきた言葉をそのままあてはめて解答する傾向がある。授業では「それじゃ通じないよね。もう一回辞書を使って調べて。他にもこんな意味があるよ」と促す。
AI翻訳への関心は高まりつつあるが、現場で使い始めている教員はまだそう多くない。日本通訳翻訳学会内のプロジェクトが21年に実施したAI翻訳の使用状況の調査で、「英語の授業で、機械翻訳を活用しているか?」との問いに「使わない(全く、あまり)」と答えた人は回答者の82%を占める49人だった。ただ「外国語学習のために機械翻訳を活用したいか?」との問いでは、「活用してみたい」が最多で、回答者の57%の34人だった。
生成AI「ChatGPT」の登場で、利用に向けた動きは加速する見通しだ。6月中旬、関西英語教育学会2023年度研究大会で、小学校から大学までの教員がひしめき合った大阪教育大学の教室では、千葉商科大の酒井志延名誉教授(外国語教育)が「どうする英語教師―AIが進化する時代において」と題して講演した。酒井教授が会場に「AIの発達は、外国語教育に影響を及ぼすとお考えですか?」との問いを投げかけると、それぞれが一斉に回答した。影響は「かなり受ける」と答えたのは68%、「どちらともいえない」が13%、「ほとんど受けない」が5%、「まあまあ受けないだろう」が5%、「まあ受けないだろう」が3%、「考えたくない」が5%だった。
7月には文部科学省が、教育現場での生成AIの利用に関する暫定的なガイドラインを発表し、活用例として「英会話の相手として活用したり、より自然な英語表現への改善や一人一人の興味関心に応じた単語リストや例文リストの作成に活用させること」などをあげた。
AI翻訳を使った英語教育の改革に力を入れる立命館大の山中司教授(外国語教育)は「英作文やリスニングでも、これまでなかった英語の勉強の仕方が生まれつつある。AI翻訳を使う実践を重ね、英語の能力をつけられることを実証したい」と利用に前向きだ。ただ英語を話すスキルはAIにすぐには置き換わらず、短期的には教育方法に影響しないとみる。TOEICなどのテストや受験についても「そう簡単には変わらないだろう」と話す。
翻訳に詳しい立教大の山田優教授も、利用を前提にした教育の見直しをするべきだとの考えだ。「自動翻訳が正しいかを確認する英語力をもつ人材は今後も必要だが、その同じ教育が全員に必要だろうか」と指摘。「一律に教えるより、学習者のニーズに応じて教育内容を柔軟にすることも考えてもいいのでは」
AI翻訳へ傾倒することに懐疑的な立場もある。関西英語教育学会では「先生から『ずる』を促進するような機械の導入を進めるのかと意見が寄せられた」との声もあがった。
千葉商科大の高橋百合子名誉教授(英語教授法)は「電卓があっても、足し算や引き算といった算数の論理を教えるように、AI翻訳の機械があっても、外国語と母語ともに基礎的な語学力をつけ、異なる言語の学び方を教える重要性に変わりはない」と話す。「同じ言葉を翻訳しているようでも、少しずつ違うところにその文化のこだわるポイントが見える」。たとえば日本語では姉妹と上下関係を分けるが、英語ではsisterと同じ言葉で表現する。一方で、日本語で「本を読む」といっても、英語では1冊のbookのか複数冊のbooksなのかは分けている。「語学の教育では、言語を通じて見える文化の違いを楽しめるかどうかといった視点も大切です」