欧州の国際機関や企業でAI翻訳は欠かせない存在に
6月30日、ブリュッセルにある欧州連合(EU)本部の記者会見場。加盟27カ国による首脳会議を終えた、EUのミシェル大統領が英語で話し始めると、ガラス張りの専用ブースに陣取った5人の同時通訳者の口が動き出す。英、独、仏、イタリア、スペイン語。ミシェル大統領が突然、母語のフランス語に切り替えた。各国の記者が質問する言語も、ころころ変わる。通訳者は欠かせない存在だ。
多言語主義を掲げるEUの公用語は24にのぼる。2000年代の東欧諸国の加盟に伴い、公文書などの翻訳作業量もぐっと増えた。米政治専門サイト「ポリティコ」によると、EUの執行機関である欧州委員会では2013年の約200万ページから、2022年には約250万ページに増加。ところが、翻訳部門の常駐スタッフは過去10年で17%縮小しているという。人間の翻訳者に代わって、AI翻訳の利用が拡大しているからだ。
欧州では企業や公的機関でAI翻訳が広く普及し始めている。スイスのメディアによると、国営郵便事業会社「スイス・ポスト」が昨年、機密情報の漏洩(ろうえい)などを防ぐため、社員に対して「DeepL」無料版などオンラインのAI翻訳サービスの使用を禁じた。だが、社内から不満が噴出し、一部を除いて使用を認める事態となった。
ロンドン在住の英語翻訳者、石川恵理さんもAI翻訳の力を職場で実感している一人だ。
石川さんが大手日系企業の現地法人で働き始めたのは、2017年のこと。研究開発系の部署に配属されたが、仕事の多くは資料の英訳だった。日本から送られてくる膨大な日本語資料を、英国人の上司のために翻訳する日々が続く。
月1回の会議前日は修羅場だ。5000字以上の資料4、5件を、翌朝に間に合わせなくてはならない。プロの翻訳者が1日にこなせる分量は平均3500~4000字だと、石川は聞いていた。100人ほどの現地スタッフの中で、日本人は石川さんひとりしかいない。
「こんな状態がつづいたら、絶対に無理です。パンクしちゃいます!」
1年ほどして、キャパを大幅に超える仕事量に悲鳴をあげた石川さんに、英国人の上司は不思議そうな顔でこう言った。
「どうしてAI翻訳を使わないの?」
上司に言われ、半信半疑で調べてみると、その進歩のすさまじさに驚かされた。
「なぜ、もっと早く使わなかったんだろう」。そう後悔するほど、仕事の効率は上がった。
より良い表現へ変える「ポストエディット」の仕事が増加
それから5年。石川さんにとってAI翻訳はいまや欠かせない「相棒」だ。だが、なまじ精度が上がった分、日本語から英語にAI翻訳された文章の誤りを簡単には見抜けなくなった。AI翻訳にかけても、それが正しいかどうかを確認できる力が求められる。むしろ、ビジネスで使いこなすには、それなりの英語力が必要になるのだ。
最近、翻訳者仲間からこんな話を聞いて、妙に腑(ふ)に落ちた。翻訳サービスの会社から、AI翻訳にかけた文章を修正し、そこからより良い表現へ変える「ポストエディット(事後編集)」という仕事の依頼が増えているというのだ。過渡期のAIと人間とをつなぐ、新たな領域ともいえる。
ただ翻訳の職域に新たに加わりつつあるポストエディットとどう向き合うかは、業界内でもまだ手探りだ。AI翻訳を下訳に使えば、速く訳せるようになることが多い。
「DeepLを下訳に使うと、翻訳にかかる時間が半減する」
この20年ほど、メディアで日英の翻訳をしてきた宮崎晴子さんも、DeepL翻訳の精度の高さと速さに驚いた一人だ。たとえ日本語の文章に主語がなくても、そこをうまく読み取りながら英訳された文章をつくりだす。特にこの1、2年の精度の向上はめざましく、こなれた日本語や英語の文章で訳し、時に手をいれなくてもよいレベルもたたき出す。
一方で、一般社団法人日本翻訳協会の堀田都茂樹代表理事は「人間が一から訳した方が、速く、的確にできるものもある」と話す。
同協会によると、AI翻訳を使った場合には労働時間が減るなどの理由から、仕事あたりの単価は下がる傾向にあるという。翻訳業界の関係者は「AI翻訳を使ったとしても、質を保つには、翻訳者はこれまでと同じレベルが求められる。労働時間だけではかられることに複雑な思いを抱く人もいる」と打ち明ける。
一方、AI翻訳が広がることで、翻訳の市場自体が拡大するとの見方もある。AI翻訳に詳しい一般社団法人アジア太平洋機械翻訳協会の隅田英一郎会長は「AI翻訳は安くて速いので、地方自治体や中小企業などの翻訳の需要は増えるのでは」と話す。
同時に、AI翻訳の普及でポストエディットの仕事が増えることも、翻訳市場の成長を助けるとみる。翻訳者は、従来の翻訳のように特定分野の専門性を磨くだけでなく、幅広い分野でポストエディットができる力も必要になる、と予測する。
同協会の5月のセミナーでは、この自動翻訳の誤りを修正して完璧な翻訳にするポストエディットがテーマ。このポストエディットを経験した翻訳者へのアンケート(277人のうち回答者は178人)が紹介され、「翻訳作業が早くなった」と答えた人は79%。また「またポストエディットをやりたい」は93%いたという。
専門分野の翻訳エンジン開発 業界は二極化?
製薬会社の翻訳を手掛けてきたアスカコーポレーション(大阪市)は、生き残りをかけて、製薬に特化した翻訳エンジンをつくった。高度化するAI翻訳を前に、2018年、独自のエンジンを完成させた。医学文献など90万の文章を人で翻訳し、読み込ませた。同社の場合、このエンジンによる翻訳はあくまでも人間の翻訳者にとっての「参考文献」とし、PEとは位置付けていない。それでも納期は40%ほど早くなっているという。
翻訳といっても対象は幅広く、業界関係者の中には、今後の翻訳業界は二極化するとみる人も多い。小説など、人間の翻訳の割合を大きく残す分野と、技術関連の書類やマニュアルなど表現や論理が定まっている文書でAI翻訳が主流になる分野だ。
オバマ元米大統領の著書などの翻訳を手掛けてきた翻訳家の棚橋志行さんは、「AIはそう簡単に人間の翻訳家を肩代わりできない」とみる。
本を翻訳するとき、棚橋さんはまず参考文献を読み込み、本が書かれた文化的背景などを頭に入れてから翻訳に取りかかる。そして、全体を訳して大意をつかんだあと、もう一度、一語ごとに言葉を吟味していく。「全体から細部へ入り、最終的には細部が全体を表す。機械にはできない仕事です」
技術の進展は早く、先行きは見通しにくい。今春出た米金融大手ゴールドマン・サックスのAIに関する報告書は、AIの進展で、欧米の雇用の約3分の2が影響を受け、世界で約3億人が職を失う可能性を指摘した。
AI翻訳の普及に力を入れるグローバルコミュニケーション開発推進協議会会長の須藤修・東京大学名誉教授(社会情報学)は「(AIが人間の知能を超える)シンギュラリティーは2045年にくるといわれていたが、10年ほど早まっているとされる。AI翻訳などの精度は一層高くなり、人間の仕事は変化を余儀なくされる可能性がある」と指摘する。
一般社団法人日本翻訳協会によると、翻訳者はフリーランスで働く人が多く、いわゆる労働組合も少なく、待遇改善や雇用維持での交渉力は十分に機能していないという。
堀田代表理事は「第一に、PEを職域に位置付けながら、機械にできない専門性を見定めて培うこと。次に翻訳にとらわれず、通訳や語学教師、コンサル、ライターなど親和性が高い業界にクリエイティブに領域を広げてキャリア形成を図ることが重要になる」と話す。