投手が完全試合を達成すると、この偉業を成し遂げた先人たちのリストが出てくるものだ。ニューヨーク・ヤンキースのドミンゴ・ヘルマンが2023年6月28日にやり遂げたときもそうだった。
有名な名前(サンディ・コーファックス!〈訳注=「神の左腕」と呼ばれた〉 サイ・ヤング!〈訳注=米大リーグの最優秀投手賞はその名を継いでいる〉)もあれば、さほどでもない名前(ダラス・ブレイデン?〈訳注=2010年の10勝以外は2桁勝利をあげたことがない〉)もある。
このリストの一番上を見てみよう。スクロールで見落としがちだが、よく注意すると2人の名前がある。3人目(訳注=サイ・ヤング)はそれから四半世紀近くも後になり、この間に試合のやり方も大きく変わっている。
1人目:リー・リッチモンド、所属球団・ウスター・ルビーレッグス、1880年6月12日
2人目:ジョン・ウォード、所属球団・プロビデンス・グレイズ、1880年6月17日
このリストに出ていることを除くと、2人の名前を聞いてピンと来る人は現代の野球ファンにはあまりいないだろう。所属球団すら消滅している。完全試合は今日にいたるまで極めてまれで、この2人はそんな偉業の先駆者として評価されるためだけに存在しているようにすら思えてくる。しかも、それだって、昨今はおぼつかない状況にある。多くの報道機関が、記録保持者のリストを1901年に始まったいわゆる「近代野球」(訳注=大リーグが現在の2リーグ制になってから)以降に限っているからだ。
そんな中でも、リッチモンドは少なくとも「初の完全試合投手」としての栄誉に浴するだろう。達成したクリーブランド・ブルース戦は、自身のキャリアの頂点となった。
しかし、わずか5日後のバッファロー・バイソンズ戦で完全試合を成し遂げたウォードのことをじっくりと調べてほしい。ロードアイランド州プロビデンスにあった球場メッサー・ストリート・グラウンズで木曜の午後に行われた試合で、対戦した打者を27人で封じたことが、あの二刀流のスーパースター、エンゼルスの大谷翔平をさえ赤面させるような経歴のほんの一行に過ぎないことがわかるだろう。
大谷の投げて打ってのすごさには、畏敬(いけい)の念を覚える。でも、1860年生まれのウォードは、もっとすごかった。
ミドルネームのモントゴメリーをもじった「モンテ」の名で知られていた。投手としては、完全試合を成し遂げただけではない。ナショナルリーグ(訳注=以下「NL」。大リーグは1876年にNLの1リーグで発足した)の防御率1位にも輝き、164勝をあげた。野手としては2107安打を放ち、1シーズン111盗塁の記録も作った。後には弁護士になり、選手組合を結成し、独自のプロリーグを立ち上げた。「単なる趣味」で始めたゴルフでもメキメキ腕を上げ、権威のある大会で2位になった。
「ウォードについて書くと、最上級の形容詞が止まらなくなってしまう」とデビッド・スティーブンスは語る。「Baseball’s Radical for All Seasons:A Biography of John Montgomery Ward」(常にラジカルだった野球人:ジョン・モントゴメリー・ウォードの伝記)の著者だ。
19世紀には、投手も野手もという二刀流選手がよくいた、と大リーグの公式野球史家ジョン・ソーンはいう。その中でもウォードはずば抜けた選手で、球場外でもすごかったと指摘する。
「選手の多才さは、草創期のプロ野球界では実に目立った」とソーンは続けた。「中でもウォードは、投手としても、内・外野手としても傑出し、著者としての才能も優れていた。キング・ケリーやキャップ・アンソン(訳注=いずれもウォードと同時代の人気選手)も自伝を残しているが、どちらにもゴーストライターがいた。しかし、ウォードは大卒で弁護士にもなり、自分で執筆して1889年に『Base-Ball:How to Become a Player』(野球選手になるには)を出した。優れた野球史の章も付けていた」
しかも、自分の成績は自著には入れていない。器用な選手で、野手として左右のどちらの手でも球を投げることができた。その成績は、概略を見ただけでもすごいのが一目瞭然なのに、今ではあまり知られなくなってしまったことにむしろ衝撃を受ける。
現役時代の初めのころは、プロビデンス・グレイズの突出したエースだった。ニューヨーク・ジャイアンツに移って腕をけがしてからは、外野を守り、さらには遊撃をこなした。そして、2度のリーグ制覇に大いに貢献した。「レジー・ジャクソン(訳注=ニューヨーク・ヤンキース時代の1977年のワールドシリーズで大活躍し、Mr. Octoberの異名をとった)のはるか前に、ニューヨークにはMr. Octoberがすでに存在していた」とソーンはかつて書いた。
ウォードは、その時代の一大スター選手だった。そのスター性の持つ価値を理解しながら、自分をさらに際立たせた。NLで選手の組合作りに奔走し、のちにNLから完全に離れて「プレーヤーズリーグ」を設立した。NLのライバルであり、時代をはるかに先取りしてオーナーへの収益分配システムを採用し、選手を球団に縛り付ける契約の予備条項を廃した。
新リーグは、結局は失敗した(訳注=1890年の1年だけでつぶれた)ものの、ウォードは立ち止まらなかった。いくつかのNL球団の監督になった。ボストン・ブレーブスでは球団の社長にもなった。さらには、アマチュアゴルフのトップクラスの競技会に出場し、世界中を回った。1903年にはノースカロライナ州パインハーストであった権威ある大会North and South Amateurで2位になった。当時のニューヨーク・タイムズ紙は、連日その様子を報じた。最終ラウンドではウォードの健闘をたたえながら、なんと野球選手としてのキャリアには一言も触れずじまいだった。
この種の話には、こと欠かなかった。
だれもがうらやむようなキャリアを重ねながらも、野球の殿堂に入ったのは1964年になってのことだった。没後40年近くがたっていた。その栄誉を表彰委員会から授けられたときも、ほとんど見過ごされそうな報じられ方だった。翌日のニューヨーク・タイムズ紙は、その年に殿堂入りしたほかの4人の氏名は見出しにもとったのに、ウォードについては記事の最後の2段落を割いただけだった。
「19世紀の価値ある選手たちは、アンソンとケリー、それにユーイング(訳注=William “Buck” Ewing。1939年に殿堂入り)が選ばれてからはほとんど忘れられていた」と公式野球史家のソーンは解説する。「かつては不朽の名声を誇っていても、大きなゴミ箱に投げ込まれたのも同然だった」
ウォードの伝記の著者スティーブンスは、本人が歴史からつまはじきにされていたことについては、その人柄にも一因があったと見ている。
「常に革新的な道を進もうとしたことが、大好きだった野球という競技にとどまることを難しくし続けた」とスティーブンスは見る。一例は、野球の起源論争だ。これを調べた「スポルディング委員会」が出した「アブナー・ダブルデイが(訳注=1839年に)考案した」とする説にウォードは異を唱え、球界の権威をいら立たせることになった(訳注=のちにこの「ダブルデイ説」は否定された)。
黒人やヒスパニック、先住民の選手もプレーできるようにすべきだ、というウォードのリベラルな政治姿勢も、その評価に影響したのかもしれない。
このように伝説的なほどに多くの新機軸と進歩的な構想を抱いたウォードが、野球をもっと大きな、もっとよい競技にしようとしていたとしても、驚くべきことではないだろう。何しろ、まだ「ベースボール」は「ベース」と「ボール」をハイフンでつないで「base-ball」と表記された時代だった。
そんな構想の一つが、著書に記されている(米国野球学会のおかげで本は今も印刷を重ねている)。それは、ファンの高齢化と、最も優秀な運動選手がほかの競技に流れてしまうという、野球が抱える今日の最大の問題にも呼応する構想だった。
ウォードは雄弁にこう書いている。
「base-ballを不滅の国技として確立するのに現在欠けている唯一のことは、アマチュアという要素をもっと自由に奨励することだ。プロの野球界は、監督の賢明さと愚鈍さによって浮き沈みがあるかもしれない。しかし、プロのよって立つ基盤となり、プロの未来へのカギを握るのは、アマチュア界の熱意である」
そして、こう続けた。「プロ野球の試合の開催は、常にそれなりの規模の都市に限定されなければならない。しかし、どんな小さな集落にも独自のアマチュアチームがあるべきで、彼らの試合が盛り上がるよう、私たちは見守っていきたいものだ」(抄訳)
(Benjamin Hoffman)©2023 The New York Times
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