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食べ物に敬意を払う文化はどこへ 世界のアニマルウェルフェアと日本 枝廣淳子さん

World Now 更新日: 公開日:
アニマルウェルフェアについて話す枝廣淳子さん=2023年4月27日、静岡県熱海市、大牟田透撮影

――アニマルウェルフェアとのそもそもの出合いは?

2016年にエシカル消費(倫理的な消費)の動きを追って米オレゴン州に行った。その際に注目したのが、アニマルウェルフェアと地元産の物を食べようという「イート・ローカル」だった。ハンバーガーチェーン店も地元の小規模農家と契約して、アニマルウェルフェアに配慮して作った牛肉のパテを使っていて、非常に人気になっていた。それほど高いわけでもなく、日本でいう地産地消とアニマルウェルフェアが重なった形で取り組まれていて、そのことに非常に感銘を受けた。それを何とか伝えたいと、ブックレットを書いた。

――人々がアニマルウェルフェアを求める背景にあるものは?

順番は人によって違うが、三つある。一つは「食の安全」。工場的な畜産では抗生物質などを使いがちで、そうしたものを摂取したくないという意識。二つ目が「温暖化」で、歯止めをかけるためには食べ物を変えていかないといけない。畜産物を減らそうとか、食べるのなら近くで生産されたアニマルウェルフェアに留意したものをという意識。三つ目が「アニマルウェルフェアそのもの」で、畜産動物にも意識や感覚がある以上、最後は殺して食べてしまうにしても、生きている間は快適に育てることが私たちの責任だろうという意識だ。

――日本は当時と変わったか?

企業が少しずつ動き出したのはここ数年の大きな変化だ。ただ、一般市民を対象にした調査では、アニマルウェルフェアは今も知らない人が多い。消費者が変われば生産者に影響を与えるはずだが、そこがまだまだ足りない。日本の消費者は味は別として、食べているものにそれほど関心を持っていないのではないか。

京都人だった母は「お麩(ふ)さん」「お豆さん」と食べ物に「さん付け」をしていた。食べ物や、それを提供してくれる生き物に対して敬意を払う文化を持っていたはずなのに、なぜ今こうなっているのか不思議だ。

――にもかかわらず、企業に動きが出ているのはなぜ?

海外のNGOに批判されたり、強く求められたりしている。日本政府の動きは遅いが、海外展開している企業だと欧州の状況などを見て、いずれ取り組むもの、もしくは輸出する立場で対応しなければという感じだろう。

日本にも一部非常に意識の高い生産者はいるが、全体で見ると東南アジアや中国にも後れをとっていると評価されている。東京五輪のときに調達に関する委員会に入って意見を言ったが、農林水産省の人は「既存事業者にとってコスト増になるようなことは押しつけられない」と。これではいつまで経っても変わらないと思った。

――日本は変わるのだろうか。

消費者が求めてというより、企業が変わって調達先も変わらざるを得なくて変わっていく。ハム業界がだいぶ動き始めているので、その原材料を提供しているところが対応せざるを得なくなる。本当は生産者、消費者が自ら取り組んでほしいのだが。

ただ、Z世代やミレニアル世代はそうした意識を持っているので、その世代がボリュームゾーンになってくれば、企業の対応はさらに加速するだろう。

「アニマルウェルフェアとは何か」(枝廣淳子著、岩波書店)

ーー「最後は殺して食べてしまうのにアニマルウェルフェアを主張するのは偽善ではないか」という主張はどう思うか。

どうせ殺してしまうんだからどうでもいいじゃないかということになれば、人間だってどうせ死ぬんだから生きてる間ひどい状況で生きていいのかということになるのではないか。どうせ死ぬのはみんな一緒だが、だからこそ生きてる間はやはりそれぞれが生きやすいとか、生命が輝くような生き方をするべきだ。食べるために殺すって言っても、それは生を持って生まれてくる動物なので生きてる間はその動物らしく生きてもらい、最後に命を頂くっていうことだと思う。

――アニマルウェルフェアでは「You are what you eat.」という英語の言葉をよく聞くが。

1999年、世界貿易機関(WTO)閣僚会合が米シアトルで開かれた際の反グローバル化デモで広く知れ渡った。あのとき、本当にそうだな、私たちの髪の毛一本一本、爪の先まで食べたものでできていると思った。

私たちは体の外を洋服とか装飾品で飾ることは熱心にしているが、体そのものは食べたものからしかできていない。何を食べるかというのは自己実現であり、アイデンティティーそのものなのだ。

熱海に移住して地元の魚屋さんと仲良くなると、「せっかく海からいただいた命だから」と値が付かないような小さな魚も一生懸命手開きにして譲ってくれたりする。都会ではそういう経験がないので、食べ物といっても抽象度が高くなってしまっているのだろう。

毎日、毎食とは言わないが、この食べ物はどこで誰がどのように作ってくれたのだろうといったことに思いをはせる一瞬のゆとりを持つと変わっていくと思う。