実はオリンピックが開催される前に、海外のトップアスリートたちや動物愛護団体がオリンピック開催都市である東京都とオリンピック組織委員会に対して嘆願書や要望書を出していた。
内容はいずれも、選手たちに提供されることになる豚肉と鶏卵の「安全性」について懸念を表明したものだ。食材に使われる豚と鶏が「狭い場所に閉じ込められ、残酷な扱いを受けている」とし、そうした環境で育った家畜は「ストレスが含まれたグレードの低い栄養」にしかならず、選手の競技結果に影響するとしている。
例えば豚については、母豚を「妊娠ストール」と言われる個別の檻に入れて飼育するのが日本ではほとんどだ。
省スペースと糞尿を処理しやすくして飼育を効率化するために導入されているが、檻は豚と同じぐらいのサイズしかないため、全く身動きが取れない。
分娩が近づくと一時的に「分娩ストール」に移されるが、ここも狭いことには変わりがなく、出産が終われば再び妊娠ストールに戻される。
要望書では、こうした閉塞的な環境は豚に「急性のストレス」を与えるとし、その結果、豚の体内で複数のホルモン量が増加する。それを食事として採れば選手たちにも免疫力の減退や心臓血管機能への影響などといった作用をもたらすと、海外の学術文献を元に指摘している。
一方、日本の多くの養鶏業者が採用している「バタリーケージ」についても同様に問題視している。ワイヤーでできたケージを上下左右に幾層にも連ねた狭いケージの中で育つ鶏が産む卵は、プロテインやビタミンEなどといった栄養素の点で、放し飼いで育てられた鶏より劣っているとしている。
アスリートたちは、こうした飼育方法が選手たちの栄養や健康面に悪影響を与えるだけでなく、家畜にとっても「残酷」で「福祉基準を向上」するために必要な情報を提供したいとまで申し出ている。
その上で、いずれの飼育方法も欧州連合(EU)ではすでに禁止され、その動きは各地で広がっているとしている。
この嘆願書が提出されたのは、オリンピックやパラリンピックでは、選手村や会場で使用される食材を選ぶ際の調達基準というものがあるからだ。
東京オリンピックの畜産物の調達基準を見ると「日本の関係法令等に照らし適切な措置が講じられていること」とあり、飼育方法についてははっきりと言及しておらず、ケージ飼育を禁止するなどの文言はない。
基準作成にあたり、公益社団法人「畜産技術協会」が作成した「アニマルウェルフェアの考え方に対応した採卵鶏の飼養管理指針」(令和2年)を参考にしているという。この指針を見ると、日本のほとんどの養鶏業者はケージ飼育であると書かれている。
これに対し、ロンドンオリンピック(2012年)では、ケージ飼育や、自由に屋外に出られない形で飼育された鶏の卵は使用禁止とする調達基準を設けていた。
前回リオ大会(2016年)でも、ケージフリーの放し飼い、または鶏舎内や養鶏場の屋外で地面に離し、自由に運動できるようにする平飼い、かつ有機のえさで育った鶏の卵だけを使用するという基準だった。
豚肉に関してもロンドン五輪では母豚のストール飼育を禁止、リオ大会では大手の食企業が自主的に妊娠ストール廃止を表明するなどした。
そして五輪に限らず、ケージやストールに閉じ込めた形での家畜の飼育は禁止にするのが世界的な潮流だ。効率性、収益性を重視してきたグローバル企業でさえも、こうした飼育方法による卵や食肉の使用を取りやめる動きが世界各地で出ている。
結局、アスリートや動物愛護団体の訴えに対し、組織委はどう回答したのだろうか。以下がその内容の要点だ。
「各界の専門家から意見を聞き検討したが、日本でずっと続けているケージ飼育で今回も行く」
ケージ飼育を続ける理由として「平飼い方式は鶏が自由に運動でき、行動が多様化する」が「社会的順位の確立等による闘争行動が生じやすい」「鶏と排泄物が分離されずに飼育されるため、病気、寄生虫病などが発生しやすい」「野外での放し飼いでは野犬等による被害や野鳥などの接触による伝染病発生の危険性がある」ことを挙げている。
これに対し、農と食のジャーナリストの山本謙治氏は次のように話す。
「組織委員会の回答の『社会的順位の確率等による闘争行動が生じやすい』についてはその通りで、平飼いや放し飼い鶏舎では、他の鶏に背中を突かれ、羽がむしられた鶏を見かけることもあります。ただし欧米では、それも含め本能的な行動であり、飼育環境を広げたり止まり木を設置するなどの工夫である程度は軽減できるとも言われています」
一方で、山本氏は「『鶏と排泄物が分離されずに飼育されるため、病気、寄生虫病などが発生しやすい』については、確かに日本の養鶏関係者の努力によって、サルモネラ危害がこの20年間で激減した」と前置きした上で、こう述べる。
「ただ、平飼いやケージフリーは原理上、鶏が糞に触るリスクが高いことから、ケージ飼いよりサルモネラ菌などの混入リスクが高くなることは確かかもしれません。ただし、平飼いだろうとケージフリーだろうと、洗浄・殺菌の工程を経て流通するので、卵の外側に着く菌のリスクは高くはありません。卵殻内にサルモネラ菌が混入するリスクはありますが、卵を生食するのは日本だけで、海外では卵は菌が死滅する温度で加熱調理して食べるのが普通です。加熱調理用とすれば問題はありません」
さらに山本氏の指摘は続く。
「『野外での放し飼いでは野犬などの接触による伝染病発生の危険性がある』ですが、日本国内でも屋外での放し飼いを取り入れた養鶏業者が生産を続けている事実がすでにあり、重篤な問題は起きていません。またこの回答では屋外養鶏ではなく屋内の平飼いを否定することはできません。こうしたことを考ると、組織委員会の回答は単に『日本の大規模養鶏業者にはまだアニマルウェルフェアへの対応はできないので、今回はケージ飼いの卵で勘弁してください』と懇願しているに過ぎないと聞こえてしまいます」
一方、私が25年暮らすイタリアで生まれ、伝統や安全、環境といった観点から食問題に取り組むスローフード協会カルロ・ペトリーニ会長も、人間の健康のためにも環境のためにも、度を越した消費とそれに伴う過密飼育はやめるべきだと話す。興味深い彼とのやり取りを、以下に一問一答の形で紹介する。
――日本では多くの生産現場で、未だにケージ飼いや拘束飼育がされています。
食料の供給システムには一定の限度を設ける必要がある。人類は欲張りすぎだ。それは日本に限ったことではない。経済が発達し、先進国はとても豊かになり、肉の消費量も飛躍的に増えた。
限度がないために、消費量はどんどん増え続けています。国際連合食糧農業機関のデータによると、イタリア人が現在、1年間に消費する肉は81キロ、アメリカ人は124キロ。50年前の2倍になっている。
その一方で、サブサハラ・アフリカ地域(アフリカの北アフリカを除いた国々。ただしスーダンは含む)では、肉の消費量は1人年間5キロとても少ない。大量に生産すれば価格は下がり、さらに需要が増える。それに対応した大量の食品を金持ちの先進諸国が独り占めしているという構図だ。
世界で16億人もの人間が食べ過ぎによる成人病で苦しむ一方で、8億人もの人が栄養不足、2000~3000万人が餓死している現実がある。
――その大量生産の一端を担っているのが、ケージ飼育などの過密飼育と言われています。
貧しくて栄養が足りなかった時代には、肉は貴重なたんぱく源だった。経済が発達し、肉を食べよう、牛乳を飲もうとどんどん増やし、欲しがった結果、大量生産の畜産スタイルが生まれたのはアメリカも日本も同じだ。
のんびり放牧するよりも、ケージにたくさん押し込めて飼育した方が効率よく儲かるからだね。だが必要に応じて増やすのと、度を越すのは別のことだ(※)。
(※筆者注:農畜産業振興機構によると、日本人の肉の年間消費量は昭和35年で1人当たり3キロで、サブサハラ・アフリカ地域より少なかったが、平成28年には31.4kgと10倍に増加している)
――発展を求めて人類が引き起こした環境問題や疫病の発生が今、大きな脅威となっています。
欲望に任せ度を越した消費の陰に、動物も含めた他者の命をリスペクトしない農業、産業が存在していることに鈍感でいたり、見ないふりはもはや許されない時代なんだ。各地で起きている環境問題や疫病の発生は、結局自分たちに降りかかってくるんだから。
ペトリーニ氏も言うように、もっとたくさん、もっと安くという消費者側の欲望と、より多く、より効率的にという生産者側の欲望が重なった結果、度を越した生産システムが誕生し、日本は未だそれを続けているのが現状のようだ。
今回の五輪では、そんな日本の食糧事情の暗い側面に残念ながら光が当たってしまった。だが日本でも徐々に平飼いなどに挑戦し、生物の命や食の安全に気を配る生産者たちは増えてきている。世界が注目する巨大イベントを機に、日本の農業、畜産業と、消費者の意識が変わっていく、それもまた五輪が果たすプラスの役割かもしれない。