0か1ではなく「より良い状態」を
荒川さん自身、実家が北海道の専業農家で、農業高校卒業後7年間、漫画家になるまで実家の畑作と酪農に携わったという。知識と経験が基になっているだけに、農業をめぐる夢と現実はリアルに描かれている。
アニマルウェルフェア改善の動きが鈍い日本だが、畜産業者が家畜の状態に無関心なわけではない。信州大学農学部准教授の竹田謙一さんは「アニマルウェルフェアというと日本の酪農家は放牧を思い浮かべて『無理』と返ってくるが、柔らかい床や温度管理などカウコンフォート(乳牛の快適性)が大事なことは分かっている。一方的に海外は良くて、日本はダメというふうにいわれると生産者は反発する。0か1かではなく、より良い状態をめざすことが大事」と指摘する。
その上で「ただ日本では家畜本来の飼育環境や行動がどんなものなのかという理解がもっと広まらないといけない。消費者にはアニマルウェルフェア向上が生産コスト増につながることを理解してほしい。生産者だけに負担を押しつけては何も進まない」と釘を刺す。
アニマルウェルフェアは、地球温暖化や児童労働などと同じ文脈でとらえられるべきだと私は考えている。
私たちは長く二酸化炭素(CO₂)など温室効果ガスによる環境汚染に無頓着で、化石燃料で様々な便利さを手にしてきた。あるいは国内外での人権を無視した労働に目を向けず、ただ、いいものが安く手に入ると無邪気に喜んできた。英国の有機養豚農家ヘレン・ウェイドさんも言うとおり、環境を回復したり、労働に正当な対価を払ったりしていれば、市場価格はもっと高くなり、消費はおのずと抑えられたはずだ。
これまでの市場経済が欲望を刺激する一方で見落としてきた、あるいは見て見ぬふりをしてきた自然や他者の痛みにも目を向けて経済社会を変えていこうというのが、国連のSDGs(持続可能な開発目標)にもつながる変革の流れといえる。「物価の優等生」といった美辞麗句の背景にある問題も知ることが求められているのだ。
食卓にのぼる動物のアニマルウェルフェアが問うているのも、私たちの食の欲望のために、他者を踏みつけにすることがどこまで許されるのかということにほかならない。
「どうせ殺すのだから」ではなく
動物を殺し、食べることを潔しとしない人もいるが、私はそもそも人が生き物である以上、動物であれ植物であれ何らかの命をいただくのは一種の業のようなものではないかと考える。将来、人類が無生物から食料を作り、それのみで生きていけるようになれば、その業から逃れられるのかも知れないが、果たしてそれは機械と違うのだろうかと想像をめぐらす。
一方で、どうせ殺し、食べるのだから、家畜がどんな環境にあっても気にしないという態度も取りたくない。くしくも環境ジャーナリストの枝廣淳子さんからも同じ答えが返ってきたが、私たち自身いずれは死ぬ身であるからといって、他者に「どうせ死ぬのだから、悲惨な生活でも我慢しろ」と言われたらどうか。
もう一つ重要なことは、アニマルウェルフェア向上の主張は「かわいそうだから」といった主観や感情に根ざすだけでなく、動物のホルモン濃度や行動記録によるストレス測定など科学的・客観的な根拠も持つようになっているということだ。英国では、従来の魚を含む脊椎動物に加え、エビやタコなども感覚を持つことが科学的に確かめられたとして、食用にする場合も長く苦しませることなく殺すことを求める法律が2022年に成立した。
同じ人間であっても、世界のあちこちで命を含めた人権が踏みつけにされている。そうした現状には大きな矛盾を感じる。それでも「You are what you eat.」(あなたは、あなたが食べたものでできている)の成句が示すとおり、私たちは日々の食事を通じて、常に自身のあり方を試され、また、ささやかであっても自らのあり方を表現できるのではないだろうか。
人と他の生き物で、あるいは生き物の近しさによって、扱いに様々な差や優先順位は生じるにしても、せめて同じ生き物としての共感は大事にしたい。命をいただくまで、家畜にもできるだけ本来の生き方に近いアニマルウェルフェアが与えられるようになってほしいと願っている。