――なぜエンバーマー(遺体衛生保全士)を志したのですか
10代の頃、「黒鷺死体宅配便」というマンガと出会い、登場人物の中にエンバーマーの女子大学生が活躍する姿に惹かれたのが最初のきっかけだと思います。しかし、当時はまだ自分がご遺体と向き合う仕事に就くことは想像できませんでした。別世界すぎたのもあったのでしょう。しかし就職先も決まらぬまま大学を出て、あれこれ職に就いたり専門学校に通ったり、誰が見ても不安定な暮らしをしていました。
そんな中、恩師が急死し、喪失感と悲しみでふさぎ込むことが増えてしまいます。失業も経験し、考える時間が増えたのか、この感情をもっと深掘りしたいという意識が芽生えます。
結果、「やはりご遺体と向き合いたい」と感じて両親に助けてもらいながら、27歳の時、エンバーマーになるための専門学校に通いました。
――専門学校では、どんなことを学ぶのでしょう
解剖学、化学、葬儀の歴史など様々なことを教わりました。葬儀社にてエンバーマーの先輩方に習いながら実地研修も経験しました。
最終的に法医学教室の解剖助手となり、修復や保全といった研修時代に学んだことを活かしながら教授のお手伝いをしておりました。
――ご遺族や、携わった方の生前について触れる機会はありましたか
エンバーマーや助手としてはご遺族と関わる機会は滅多にありませんでしたが、研修時代に先輩に付いて葬儀場に行き、故人様のお化粧直しや状態確認をすることは稀にありました。
葬儀社の社員さんからご遺族のオーダー(旅立ちの際の服装やメイクなど)や特に修復をしてほしい部分(事故ややつれなどのリカバー)などは伺っているため、先輩方も対応してその後のチェックをするんです。
先輩がご遺族から感謝されている姿を見ると、やはりやりがいある仕事と感じました。
――海外では還元葬や水火葬といった新しい埋葬方法が登場し、日本でも散骨や樹木葬を選ぶ人が増えています。こうした時代の流れについて、どう感じますか
全てを自然にかえす、という思想は、故人様の強い意志ならば尊重すべきとは思います。火葬以外の埋葬法も国内の一部地域には存在するため、地域の方々のお考えを第一に考えるべきです。
自然にかえりたいと思うことは理解できます。しかし、残された方々の生活は続くのが現実です。命日や法事の際に墓前に立ち、「ここで眠っているんだ」と意識しながら手を合わせる……。そんな優しく穏やかな空間と感情は残して置いて欲しいのです。
自然にかえす分、残された方々の分と、「分骨」をして気持ちを分け合ってもよいと感じるのは、昭和55年生まれの「ちょい古」感覚なのでしょうか。
法事じゃなくても会いたいときに会える。対話したいときにできる。そんな場所があるだけで、故人様への絆も消えず、前もちゃんと向けるようになるのでは……?、と今は思います。先を生きるためには、時々過去を振り返り思いを馳せることも必要でしょうから。
母方の本家がある秋田県横手市では、人が亡くなった後は通夜をしてすぐに火葬場に向かう場合が多く、いわゆる「骨葬」スタイルが主流のようです。曾祖父や大叔父、祖母が亡くなった際に、通夜から翌朝の火葬場へ行く直前まで、近所の方々がご挨拶や献花に来てくださった記憶があります。
祖母の葬儀の際は、東京生まれ東京育ちの夫も秋田に同行してくれたのですが、「もう火葬場へ行くの?」と少し驚いた様子でした。
火葬ひとつとっても、今でも様々な順番が地域によって根付いています。根付いてはいますが、故人様の意見や、ご家族の意見が通りやすいのもまた、葬儀の特徴……。葬儀社の方々や宗教者のお知恵で折衷案や新提案がまとまりやすい環境にあるでしょう(相続では揉める話も多々ありますが……)。
これから更に様々なことが「多様化」していき、葬儀スタイルそのものが宗教や宗派に囚われない考え方もどんどん色濃くなると思われます。骨になって包まれて石の下で眠ることだけが「かえり方」ではないんだなと、今回の特集記事を読んで改めて感じました。
――もし自分の葬法を選べるとしたら、どんな方法が理想的でしょうか
難しい質問です。献体や移植元として最後の奉仕をしたいとも思っていますので。私は子供をもうける予定が無く、配偶者を含め目上の身内をみとるためにできる限り元気で長生きすることを「生まれてきた意味」のひとつと考えているため、自分の埋葬方法を選ぶのは今はピンとこないのが正直なところでして。
最期に医療機関や生活を助けて下さる施設などで何かしらの良き縁があり、埋葬方法を相談できるような時間が持てたらいいなとは妄想します……。
――ご遺体と向き合うこと、埋葬のあり方の持つ意味について、どう考えますか
葬儀や埋葬は、時短し過ぎては後々、ご遺族の心に「時短した分の重さ」のようなものが返ってくるような気がしてなりません。
誰もが忙しい現代において、様々なことを省略することは仕方がないとは思います。しかし、「本来はこうやってお旅立ちを見送る」という知識は持っておいて欲しいのです。
もちろん弔う方法は信仰や宗派により違うでしょうから、今後は葬儀社の方々や宗教に携わる方々の教授する力と場所がより必要になると想像します。
理解した上で、時間の許す限り偲び、時には手間暇かけて、思いを馳せて……の余裕が、ひとりひとり生まれたり、再認識できたりしたら嬉しいことです。
目を閉じ手を合わせる、組む姿は、無防備で穏やかで不可侵です。
自然に還りたい、お墓はいらない、親しんだ場所に戻り眠りたい……。そんな考えが生まれるのは、きっと考える余裕と、実現する技術の進化が存在するからでしょう。今でも戦火の中、災害の中などでは、多くの犠牲者を目の当たりにする人々がいます。「まず埋葬」と切羽詰まった環境に置かれているはずです。
死後どうありたいか、と考えられるのは少し贅沢というか、恵まれていることなのかなと世界情勢を見ているとそう思わずにはいられません。どうか世界中の一人一人が「かえり方」について思案する時間を沢山使えるようになることを願うばかりです。
土になっても、アクセサリーになっても、「もう居ないけど、確かに側に居るんだ」と残された方々が感じられる姿に「かえる」ことができたら幸せですよね。