「本来、死というのは個人的なことなのに、災害などでは社会的なこととして扱われる。そもそも、多くのご遺体を合同で弔うということが異常事態なんです」。東日本大震災で、遺体の仮埋葬(土葬)とその後の掘り起こしという作業を担った葬儀社「清月記」(仙台市)の統括部長、西村恒吉さん(47)はそう振り返る。
西村さんは葬儀社に入って10年余で東日本大震災に遭遇した。それまで何百もの遺体を弔ってきたが、一つの葬儀で1人の遺体に対し何人ものスタッフが関わるのがふつうだ。しかし、東日本大震災では、何百という遺体に対し数人のスタッフでの対応を強いられた。
2011年3月11日の震災発生直後から、大量の棺の確保に走った。死者数は増え、仮設テントに遺体が並んだ。火葬場が被災して火葬が追いつかず、棺に入れるドライアイスも足りない。遺体が腐敗していくのを避けるため、行政はいったん土中に仮埋葬し、その後に掘り起こして改めて火葬することを決めた。
東日本大震災による死者・行方不明者が3700人近くにのぼる宮城県石巻市では当初、自衛隊が仮埋葬の作業もしていたが、「自衛隊は人命救助や街の復旧にあたるべきだ」という意見が強まったこともあり撤退。葬儀社と建設会社が担うことになった。
石巻市の依頼を受け「清月記」が仮埋葬を始めたのは4月4日。途中、東京に遺体を運んで火葬することもあったが、24日まで続いた。だが、そのころになると、火葬場に多少余裕も出てきた。「早く土の中から出して火葬してほしい」という遺族らの求めに応じ、石巻市は遺体の掘り起こし作業を清月記に委託した。
5月7日から8月中旬までの間に700近い遺体を掘り起こしたが、想像を超える過酷なものだった。「いま考えると仮埋葬はやるべきじゃなかったかもしれない」。社員9人の専従チームのリーダーを務めた西村さんは言う。
もともと棺は、葬儀の際に持ちやすいように軽く、そして火葬で燃えやすいように、ベニヤ板でつくられている。それが土中深くに埋められたため、土の重みでつぶれ、地下水が入り込んでしまっていた。納体袋は血液や体液、雨水でふくらみ、遺体は腐敗が進んでいた。納体袋を開けると強烈なにおいが立ちこめた。
仮埋葬のときは遺族が手を合わせたが、遺体の状態が悪いこともあり、掘り起こしのときは遺族は立ち会えなかった。火葬のときに遺族が集まり、骨揚げなど従来の儀式はおこなった。
「我々葬儀社にとって、遺族が遺体と対面して祈る、つまり亡くなられた方との最後のお別れのときが最も重要です。死に顔を見ることで、亡くなったことを理解し、生前をしのぶことができるからです」。ただ、掘り起こした遺体は腐敗が進み、とても対面できる状態ではなかったので、火葬前に見せないようにしていた。
小学生の女の子の火葬のとき、ランドセルを棺に入れ、最後にどうしても顔を見たいと父親に頼まれた。だが、遺体はかなり腐敗が進んでいた。悩んだ末、「お元気だったときのお顔を心にとどめておいてください」と答えた。最後の顔が頭から離れなくなるのは良くないと思ったからだ。
しかし、いまもそれが正解だったかわからない。「どんな状態であろうと、最後に対面することで現実を受け止める、という考えもあったのではないか。見せる見せないの判断を葬儀社がしていいのだろうか」。そんな問いを繰り返した。
実際、遺体と対面し、火葬して遺骨を渡すことで、泣き乱れていた人が落ち着きを取り戻す姿も見てきた。東日本大震災では行方不明者が2500人を超える。「遺体が見つからないと、亡くなった実感が持てない。その苦悩ははかりしれない」
遺体と対面できないのは、新型コロナウイルスで亡くなった場合も同じだという。「最後の別れをできない死」とどう向き合うか。西村さんの葛藤は続く。(星野眞三雄)