自分が死んで死体になったらそれはもう自分ではない、という感覚が僕にはありますね。
死体は有機物だから、日本人の伝統的な感覚では、「土に還る」というのかな。脱ぎ捨てた洋服、抜け殻みたいなものという感じですね。
ただ、死んだ後には、魂のような何かが残ると思っています。
「あ いるんだ」という詩を最近、書きました。亡くなった友人が、ふっと戻ってくる、現実感みたいなものを書いた詩です。
〈パソコンの中から/死んだ友人の/元気な声が聞こえてきた/あ いるんだ〉
〈見えなくても/聴こえなくても/触れなくても/すぐそばに〉
(詩から引用)
それは、記憶や思い出よりも深いもののように思います。
だから、死は、瞬間的なものではなく、ずっと、生きることの中に後を引いているものじゃないかと思いますね。生から死へは、フェードイン、フェードアウトでつながっているという感じです。
生きるということを考えたら、必ずどこかで死とリンクしている。はしゃぎきっちゃって、死のことを全然考えない楽しみ方も当然あると思うけども。言葉で「生きる」って言った以上は、どっかに死というバランスウェートがないとリアルにならないと思うんですよね。
僕の「生きる」という詩が、わりと人に読まれているっていうのは、誰の気持ちの中にもそういうことを感じるものがあったんだろうなと思います。
中学生だった戦時中、東京の空襲で近所まで焼けて、翌朝、友だちと自転車で焼け跡を見に行きました。
焼死体がゴロゴロ転がっていて、人間の体のようではなくて、焦げて鰹節みたいになっていたんですよね。子どもだから怖いっていうより、不思議な感じがしていました。
それが強く印象に残っていて、自分に何らかの形で影響を与えていると強く思いますね。
20代のころから、死はたびたび自分の詩に登場しています。
若いころは、秋になって落ち葉が土に還っていくというように、ただ抽象的に考えていたんだけど、最近は、ちょっと肉体的になってきましたね。
死よりも老いの方がずっとリアルなんですよ。脚が弱くて歩くのが苦痛になったとか、自分の体がだんだん衰えて昔とは違うようになってきて、気になります。
両親、寺山修司や武満徹ら友人たちも、みんな亡くなりました。親しい人を失った直後は悲しいことを感じる余裕がありません。
でも、何カ月も、あるいは1年以上たった後でふっと、悲しくなることがあります。それが何なのかよくわからないんですけど。
父と母に関しては、あの2人が自分の中に入ってしまっているように感じます。なんせ赤ん坊のときから付き合ってくれているわけですから。
たとえば、年を取った父が、この自宅の部屋で寝転がってベートーベンを聞いていたのを思い出すんですが、自分も同じようなことをしていますね。
それは悲しいというのとは、全然違いますね。むしろ快いっていうのかな、しょうがねぇなみたいな。
自分で埋葬のあり方を選ぶような人たちは、やっぱり自分を大事にしているんだろうと思います。
自分の美意識みたいなものがあってね。死ぬまで洋服を選ぶのと同じように、死に方、埋葬のされ方も選ぶっていうことなんじゃないかな。
それに、生前に自分史を作るとか、今、いろいろあるでしょう? プライベートなドキュメントを残したいと。
僕の周りでは(詩人の)茨木のり子さんが、死ぬ時のための文章(知人あての「お別れの言葉」)を残していました。美しいですよね。
ほかに、亡き夫への恋の詩を残していて、死後に「歳月」という詩集になって発表されたんですけど、それも、すごくよくてね。
だから、「死んでからでないと、その人の本当のところはわからない」なんて言いますけど、お墓とか埋葬の仕方とか、死後の自分の考え方とかも、生前のその人の性格や人となりが表れていると思うんです。
僕は物書きですから、詩や文章が現世の記憶として残ってくれれば十分で、自分は恵まれていると思いますね。
こういうふうに埋葬してほしいっていうのは一切ありません。息子や娘が適当にやってくれるだろうと思っています。
散骨だろうが鳥葬だろうが土葬だろうが、何でもご自由にという感じです。
土に還るという自然なほうが、地球上の生きものとしてはふさわしいんじゃないかと思います。
でも、骨壺に入ってお墓に入るのも、人がお参りにきてくれたりして、それはそれでいいだろうなと思いますけどね。