猪木さんは、北朝鮮で生まれた力道山の「唯一の愛弟子」という縁で北朝鮮に近づいた。
1994年に初めて訪朝。金正日総書記の側近だった金容淳朝鮮労働党書記が「プロレスなんて知らない」と語ると、「私が北朝鮮でプロレスの興行を実現します」と約束した。
1995年4月に平壌のメーデースタジアムに20万人近い観衆を集め、興行を行った。朝鮮新報の元平壌特派員だった週刊金曜日の文聖姫編集長は「北朝鮮の人は戦いが好きですから、初めて見るプロレスに興奮し、喜んでいました」と語る。
北朝鮮では、たびたび訪朝する猪木氏を「男気のある人物」と好意的に受け止めた。
以後、猪木さんの訪朝歴は30回以上を数えた。最高指導者との面会は実現しなかったものの、米朝協議を主導した姜錫柱元副首相、ロイヤルファミリーの金庫番だった李洙墉元外相、6者協議代表も務めた金永日元党国際部長ら、日本政府高官でも面会が難しい人々と会談した。
その頂点にいたのが、金正日総書記の義弟で、金正日時代のナンバー2だった張成沢氏だった。
北朝鮮は1998年、力道山の娘婿の朴明哲氏を体育相に起用した。朴氏は張成沢氏の側近としても知られていた。
2011年末に最高指導者になった金正恩党総書記はスポーツ振興に力を入れ、2012年11月スポーツ政策を統括する「国家体育指導委員会」を新設し、委員長に張成沢氏を起用した。その関係で、猪木氏と張成沢氏は急接近した。
猪木氏が最後に張氏に面会したのが2013年11月6日だった。猪木氏は同年7月の訪朝当時も張氏に面会していた。
関係者によれば、11月に面会した当時の張氏の様子は普段と全く異なっていた。普段は柔和な表情を欠かさない張氏だったが、このときは、全くやる気のない表情で、発言も投げやりだったという。
猪木氏が「日本では、みなが私に、訪朝するなと言ってくる」とぼやくと、張氏はこう返したという。
「歴史が証明してくれる」
面会のわずか1か月後の12月8日、朝鮮労働党政治局拡大会議は、張氏を全ての役職から解任し、党から除名した。同12日、張氏は死刑判決を受けて、即日処刑された。
当時、日本政府が得た未確認情報のなかに「張成沢が9月28日に逮捕された」というものがあった。日米韓の情報機関は確認に躍起になったが、張氏の携帯電話は生きていた。
さらに、猪木氏が面会したため、「張逮捕はディスインフォメーションではないか」という話になっていた。
張氏の処刑後に面会したある政府機関当局者は「張が猪木に面会したのは、逮捕説を打ち消し、張の側近らの逃亡を防ぐ目的があったようだ。猪木は有名人だから、彼と会えば必ず外電が飛びつく。関係政府も、海外に駐在する張の側近も安心しただろう」と語っていた。
別の国の政府当局者は、張氏が猪木氏に語った言葉について「今考えると、あれは、張が我が身の行く末を暗喩していたのかもしれない」と語っていた。
実際、張氏の解任が発表される前に、張氏の姉の夫である全英鎮駐キューバ大使と、張氏の甥の張勇哲駐マレーシア大使らが北朝鮮に召還された。
猪木氏は張氏の処刑後も訪朝を続けた。2014年1月に訪朝した際には、金正恩氏の肝いりで完成したばかりの馬息嶺スキー場に招待された。
北朝鮮側は「初めて滑ってもらう日本人です。ぜひご覧に入れたい」と語っていたが、到着すると北朝鮮メディアの取材に遭遇した。結果的に、正恩氏の政策をアピールする片棒をかつがされた。
一方、2016年9月の訪朝後の記者会見で、猪木氏は訪朝の意味について「スポーツ交流、人の流れをたやさないということ。今後、政府がどう動くかだ」と語り、自ら唱えたスポーツ外交の意義を強調した。
北朝鮮関係筋の一人はこう語った。
「北朝鮮は猪木に日朝関係改善の密使役を期待していたわけではない。ただ、日本の人気者で世論工作に便利だと考えただけだ。でも、猪木も訪朝するたびに記者に囲まれたし、自ら唱えた理念を実践する場も得た。猪木と北朝鮮は、お互いに相手を利用したということだろう」