■兄・金日成の側近として
朝鮮中央通信は15日の報道で、金英柱について「党と国家の要職で長い間活動し、党の路線と方針を貫徹するために献身的に闘い、社会主義建設を力強く推し進めて朝鮮式の国家社会制度を強固にし、発展させるのに貢献した」と伝えた。だが、金日成の血族である「白頭山血統」の1人でありながら、金英柱の人生には謎が多い。
韓国統一省の「北韓主要人物情報」によれば、金英柱は1960年に党の最重要部署である党組織指導部長に就任し、名実ともに北朝鮮のナンバー2になった。康仁徳氏によれば、金英柱は72年5月、極秘に訪朝したKCIAの鄭洪鎮心理戦副局長と面会した。人の良い印象だったが、同年7月、南北共同声明に署名するために訪朝した李厚洛KCIA部長らは金英柱に面会できなかった。声明は、李部長と金英柱の名前で署名したが、金日成は「金英柱は病気で会えない」とだけ説明した。
KCIAは74年7月ごろ、金正日が後継者だと判断した。康仁徳氏は「金英柱は病気か、あるいは引退したのか」と考えていた。75年になり、脱北者の情報から金英柱が地方に追放されたと知った。康氏は「まさか粛清されるとは」と驚いた。当時、権力闘争が起きていたことすら知らなかったという。
そこで、康仁徳氏は1945年に兄から聞いた話を思い出した。康氏は50年まで平壌で暮らしていた。兄は金英柱の友人から聞いた話として「金英柱は戦時中、日本軍の要請を受けて抗日パルチザン活動をしていた金日成に帰順を勧めたことがあるそうだ」と教えてくれた。日本軍は当時、金日成が率いるパルチザンの活動に手を焼いていた。朝鮮総督府には、金日成の詳細な資料もそろっていたという。
康氏の兄が聞いた話によれば、金英柱は終戦時、中国・上海にいた。日本軍と関係があったため、ソ連が進駐する平壌に戻るのは危険だと判断し、ソウルに移った。その後、平壌に入った金日成から連絡を受けたため、平壌に戻ったという。康仁徳氏はこの話について「公式の記録もなく、関係者もすでに亡くなったが、作り話ではないと思う」と語る。
金英柱は兄の側近として、独裁政治の基礎を作った。康氏によれば、金英柱が北朝鮮の悪名高い「出身成分制度」作りを主導したという。同制度は北朝鮮市民を、抗日パルチザン関係者らの家系にあたる「核心階層」(約10%)、一般市民らの「動揺階層」(約60~70%)、朝鮮戦争で捕虜になった人々などの「敵対階層」(約20~30%)の3つに分け、さらに51の詳細な身分に分けて差別した。
金英柱は協同農場の組織づくりや、ソ連派、延安(親中国)派らの粛清にも先頭に立った。康氏は「金英柱は組織指導部を握っていたし、子分たちも大勢いた。金日成も金正日と金英柱のどちらを後継者にするかで悩んだと思う」と語る。
抗日パルチザン活動をともに行い、金日成の側近だった崔賢や呉振宇らは金正日を推した。康氏は「世代を継ぐという考えもあっただろう。金英柱と日本軍の関係も問題になったかもしれない」と話す。北朝鮮関係筋によれば、金日成は1971年の時点では、金正日総書記を後継者とすることを拒んだが、72年には受け入れた。
■公式文献、ほとんどなし
北韓主要人物情報では、金英柱は1974年2月、副首相に就任してから、93年12月に党政治局委員に就任するまでの間、公式の活動記録が途絶えている。康氏は「おそらく、平壌から遠く離れた金日成の別荘のひとつにいたのだろう」と語る。
北朝鮮関係筋によれば、金英柱が地方に追いやられた時の理由は、「革命の精神を忘れ、退廃的な生活を送っている」というものだった。金日成自身も1974年ごろ、金英柱について「昔は誠実だったのに、このごろは退廃的だ」と批判した。金正日総書記は、金英柱の自宅を「豪華で腐敗の象徴だ」と批判したうえで爆破したという。
ただ、金英柱が権力に野心を示したことはなく、2013年末に処刑された張成沢元国防副委員長のように「反党行為」は問われなかった。金日成の後妻、金聖愛氏が、息子の金平日元駐チェコ大使への権力継承を狙い、金英柱に助力を頼んだこともあったが、金英柱は受け入れなかったという。康仁徳氏も「金英柱は軟禁されていたわけではなく、一切公式活動をしなかっただけだろう」と語る。
金英柱は93年以降、金英柱は93年以降、呉振宇が死去した際の国葬委員や最高人民会議代議員(国会議員)などを務め、2011年と15年には選挙での投票も伝えられたが、政治や経済、軍事などで指導的な活動は一つも伝えられなかった。
日本政府で長く北朝鮮問題を担当した元当局者は「金日成の両親や妻などは公式に偉大な人物だとたたえられ、機会があるたびに、公式メディアなどがその半生の記録を伝えている。それに比べ、金英柱に関する公式文献はほとんど残されていない。日本軍との関係も影響しているのかもしれない」と語る。
北朝鮮は日本と関係がある人々を長く、差別してきた。戦時中に日本に協力した人々は「親日派」とされ、出身成分の「敵対階層」に分類された。戦後、北朝鮮に渡った在日朝鮮・韓国人らも、多額の献金をした人など一部の例外を除き、地方の炭鉱や農場などでの労働を強いられた。
北朝鮮は今も、金正恩氏の母親で在日朝鮮人出身の故高英姫氏の存在を明らかにしていない。正恩氏の権力継承から間もない2012年5月、一部の高級幹部にだけ「偉大なる先軍朝鮮のお母様」という85分間の記録映画が公開された。高英姫氏が金正日氏の現地指導に同行したり、幼い正恩氏と一緒に過ごしたりする様子が描かれた。
映画では、李恩実という、高氏の北朝鮮での変名が使われた。韓国に亡命した北朝鮮の太永浩元駐英公使によれば、映像を見た高級幹部らは全員、「失うものばかりで、得るものがない」と猛烈に反発したという。映画はお蔵入りになった。
正恩氏は平壌の大城山にある革命烈士陵よりも高い位置に高英姫氏1人だけのための陵墓を造成させた。この陵墓にも、やはり高英姫氏の名前ではなく「先軍の母」とだけ刻まれているという。太氏によれば、この陵墓も一部の幹部だけに公開されたが、やはり全面的に立ち入りが禁じられた。
金英柱も高英姫氏と同じ理由から、「白頭山血統」に名を連ねられずにいるのかもしれない。