日本の司法システムや刑罰の変遷については「日本法制史」(青林書院)が詳しい。
同書によれば、原初日本において、罪を犯したかどうかを判定するために用いられたのが盟神探湯(くがたち)だ。釜の煮えた湯の底に沈めた小石や泥を素手ですくわせ、そのただれ具合を見て、罪を犯したかどうかを判定したとされる。
小学校の頃、歴史もののマンガで「くがたち」を読んだ記者は、子ども心にただれないことがあるのか疑問だった。同書も、冷水に手を浸すなどしてある程度防御することは可能だったかも知れないと推察しつつ、「通常であれば全くただれないということはあまり考えられず」と記している。
律令法の時代にはすでに、犯罪の成立に故(故意)と失(過失)があるとされていた。各犯罪に対してどの程度の刑罰を科すかについても客観的、機械的に定めていたという。
さらに時代くだって、江戸期の刑罰の史料を展示しているのが、明治大学博物館だ。昭和初期、欧米諸国にある刑事関係博物館にならい、教育や研究のために収集されたという。
日比さんによれば、江戸幕府の犯罪と刑罰を体系化したのが、1742(寛保2)年の「公事方御定書」だ。8代将軍徳川吉宗が編纂させた。
この時代、主人や親を殺す「逆罪」が重い罪とされ、主殺は「二日晒一日引廻鋸挽之上磔」(首から下を土中に埋めて2日さらし、1日街中を引きまわし、はりつけにして突き殺す)だったという。
死刑の次には、島流しにする遠島や、江戸への立ち入りを禁ずるといった追放刑、さらに手鎖(手錠をつけて自宅謹慎させる)、叱(叱責する)と続いた。
盗みには別の刑罰が定められていた。入れ墨と敲(棒でたたく)が用いられ、盗みを繰り返した場合、初犯は敲、2回目は入れ墨、3回目は死罪だった。
「死刑や追放刑には、社会から『排除』することで治安を保つという考え方があったと考えられます。また、磔や入れ墨は、一般の人々に対して警告を発し、犯罪予防効果も期待したのでしょう」と日比さん。
刑務所と勘違いしそうなのが牢屋だ。実際は裁きを受ける前の人たちが入れられる場所だった。
江戸の牢屋の一つ、小伝馬町牢屋については、約4年の間に言い渡された刑罰の記録が残っており、死刑427人、遠島103人、追放刑300人、入墨敲刑3795人だったという。
ただ、犯罪者を追放するだけでは、中心部以外の治安は悪化するといった弊害もある。
そこで1790(寛政2)年に石川島に造られたのが、人足寄場だ。
小説「鬼平犯科帳」で知られる火付盗賊改の長官、長谷川平蔵の提案を老中の松平定信が採用した。戸籍のない無宿者や前科者らを収容し、紙の製造などの作業に従事させ、島を出る際に金をもらえる仕組みだった。
日比さんは「更生や再犯を防ぐ目的もあり、現在の刑務所に近かったという見方があります」と指摘する。
明治維新後は、「文明国」に入るため、西欧を参考にした刑法の編纂作業が進められた。旧刑法を経て、現行刑法が可決したのは1907(明治40)年。受刑者に刑務作業をさせる「懲役」も刑罰の一種として定められた。
明治大学博物館には、他国の刑罰を知るためとして、ギロチンも展示されている。レプリカとわかっていても、残酷に見える代物だが、開発の経緯や時代背景を知ると少し違って見える。
イタリアの法律家ベッカリーアは1764年出版の「犯罪と刑罰」で、罪刑法定主義のほか、死刑や拷問の廃止を訴えた。封建的な勢力を否定する内容の同書は当初は匿名で出版されたが、ヨーロッパの知識人に大きな影響を与えたという。
ギロチンは、フランスの医学者ギヨタンが、苦痛を伴う残酷な刑罰や身分によって異なる処刑方法を問題視し、全ての死刑囚に等しい方法による斬首を提案したことによって造られた。
提案は1789年、フランス革命の年だった。フランスは1981年に死刑を廃止しているが、それまではギロチンが使われていたという。