【前の記事を読む】15歳から獄中に68年 未成年犯罪の終身刑とシステミック・レイシズム
「物静かな一匹狼」。運動や散歩を好むが、あまり人と関わりたがらないリゴンさんを、弁護士のブラッドリー・ブリッジ氏(67歳)はこう描写する。自身も認める「一匹狼」のリゴンさんは、できるだけ一人でいたいと思う理由を、「グループに入らなければ、トラブルに巻き込まれることはないから」という。
転々とした刑務所をまるで転校した学校のように話すリゴンさんは、収監生活の中で文字の読み書きやボクシングを学んだ。「ボクシングは自分と向き合うことや自制心といったものを教えてくれた」。小さな頃から掃除が大好きだったリゴンさんは、刑務所の中で清掃員の仕事を担い、毎日懸命に掃除をした。ボクシングや掃除といった好きなことに没頭し、心と体の健康を保とうとした。
周囲は口を揃えて「リゴンさんはいつも前向きだった」と話す。だが、わずか15歳で家族と離れ、終身刑という「投獄による死」と70年近く向き合ったリゴンさんの力はどこから来ていたのか。
リゴンさんは1953年、死亡者2名を出した強盗殺傷事件に関与したことを深く反省し、後悔している。その思いは、家族の死をきっかけにさらに強くなった。リゴンさんが刑務所に入ってまもなく、弟がサウス・フィラデルフィアで殺害された。その後、父親も同じエリアで殺された。さらに義理の兄弟も殺人に巻き込まれ、命を落とした。「自分の家族が殺されたことで、残された被害者家族の辛さを思い知らされ、今も持ち続ける深い自責の念を抱いた。あの悲しみは一生忘れない。殺人、殺人、殺人……こんなことがあってはならない」。
それでもリゴンさんが前向きでいられたのは、キリスト教徒としての神の信仰と、自分は誰も殺さなかったという事実があったからだ。「私は人殺しなどできる人間ではない。もしそんなことをしたらどうやって生き抜くことができただろうか」。リゴンさんはこう付け足した。「私には『生きたい』という強い意志があった。その意志が、自分と向き合いながら前に進む原動力だった」。
終身刑の「グラウンド・ゼロ」
未成年の終身刑受刑者のサポートや釈放後の社会復帰を助ける非営利団体「ユース・センテンシング&リエントリー・プロジェクト(YSRP)」によると、2012年、未成年犯罪で仮釈放なしの終身刑で服役する人は全米で約2600人いた。その中の525人はペンシルベニア州。さらにその内の300人以上が同州フィラデルフィア市に集中していたため、フィラデルフィアは「未成年終身刑のグラウンド・ゼロ(中心地)」と呼ばれた。少年犯罪により仮釈放なしの終身刑を受けた全米の受刑者の10%がフィラデルフィアという一つの市に集中していた。その背景には、フィラデルフィアが大都市であるということに加え、同州特有の法律があった。
米国では18歳未満を未成年とする州が多いが、ペンシルベニアの司法制度において、殺人で裁判にかけられる最低年齢が設定されていない。それは、例えば8歳の少年が殺人を犯した場合、「更生の可能性がない」と証明されれば、この少年が終身刑を受ける可能性があるということを意味する。そしてこの場合の終身刑は「仮釈放の可能性がない絶対的終身刑」を指す。なぜなら、ペンシルベニアには「仮釈放の可能性がある終身刑」がそもそも存在しないからだ。
さらに、未成年犯罪の場合、通常は少年司法制度から始まり、犯罪内容によって成人の司法制度へ移行されるが、ペンシルベニアでは何歳であってもまず自動的に成人用の司法制度に送られ、それから裁判官に少年司法制度への移行を検討してもらうという逆ルートがとられる。
「ミスター・ブリッジ」との出会い
リゴンさんがフィラデルフィアの公選弁護士のブリッジ氏と出会ったのは2005年。ブリッジ弁護士は、リゴンさんが終身刑を宣告された1953年生まれだ。出会った当時、ブリッジ弁護士は、死刑宣告を受ける可能性があった17歳の少年の裁判に関与していた。その裁判で、たった一人の目撃者が法廷で証言した翌日、最高裁の「ローパー判決」により、未成年の死刑が違憲とされた。
ブリッジ弁護士はこれを受け、次は未成年に対する仮釈放なしの終身刑の違憲性に挑むことを決意する。「そもそもペンシルベニアでは何人が少年犯罪で仮釈放なしの終身刑に服しているのか?」。疑問に思ったブリッジ弁護士は、そのような統計がないという事実に気づく。その理由は「ペンシルベニアでは、被告がたとえ15歳でも、仮釈放なしの終身刑を受けるのに年齢は関係ないから」だという。「有罪にすることに力が注がれ、有罪判決が出れば全て終了。被告が何歳かなんて誰も気にしない」
決して容易な作業ではなかったが、ブリッジ弁護士は19歳以下で判決を受け服役する人を全員調べ出した。その過程で、当時すでに最高齢で最長の刑期に服していたリゴンさんの存在を知る。後日リゴンさんの刑務所を訪れ、「私は少年犯罪の終身刑の法的問題にチャレンジしようと思います。私に弁護して欲しいですか?」と尋ねた。リゴンさんは静かに「はい」と即答した。
こうしてリゴンさんとブリッジ弁護士の果てしなく長い旅が始まった。リゴンさんは15歳年下のブリッジ弁護士をファースト・ネームではなく、きまって「ミスター・ブリッジ」と呼ぶ。
今でも掃除が大好きなリゴンさんは、「『ミスター・ブリッジ』の家を喜んで掃除してあげたい」という。「でも、あのエリアには近づきたくない……」ブリッジ弁護士の住居はリゴンさんらが事件を起こしたサウス・フィラデルフィアにある。父と弟が殺されたのも同じくサウス・フィラデルフィアだった。「『ミスター・ブリッジ』が引っ越しさえすれば、真っ先に飛んでいく!」。
最高裁の判例
1990年代、米国では治安対策という名目のもと、犯罪の取り締まり強化と厳罰化が進められた。未成年を含む多くの黒人男性が逮捕され、特に貧困区域の若者たちは「スーパー・プレデター(超捕食動物)」と呼ばれ「躊躇なく残虐な犯罪を犯す獣」のイメージが社会に浸透した。2012年頃、仮釈放無しの終身刑を科せられた未成年の数は全米で約2600人。ピークに達したといわれた。
2010年代に入ると、この流れに転機が訪れる。未成年に対する死刑が違憲とされた2005年の「ローパー判決」をきっかけとし、少年を成人同様に扱い厳罰を科すことに対する見直しが始められた。少年司法制度に大きな発展をもたらした最高裁の判例として、2010年の「グラハム判決」がある。この判決は、殺人以外の罪を犯した未成年に対する「仮釈放の可能性なしの終身刑」を違憲とした。続いて2012年、「ミラー判決」により、殺人を犯した少年を含む全ての未成年に対する「強制的に科される仮釈放の可能性がない終身刑」が違憲とされた。さらに2016年の「モンゴメリー判決」で、「ミラー判決」の基準が過去の判決にも遡って適用されることとなった。
この進展の後押しとなったものは科学だった。思春期の脳発達の研究により、未成年は冷静な判断に乏しく、衝動的に行動したり、自ら危険を求めたり、仲間の影響を受けやすいなどという結果が裁判に初めて取り入れられた。成人後の再犯率や更生の可能性なども議論された。だが、これらの科学的根拠について、少年犯罪による元終身刑受刑者のジョン・ペイスさん(52歳)はいう。「子供が大人のように考えたり行動したりできないということは、親なら、または一人の人間なら、簡単にわかるはずだ。子供は結婚できない、お酒を飲んではいけないという法律がある一方で、裁判では子供と大人は異なるといった当たり前の常識が全て無視されてきた」
本当の自由
「モンゴメリー 判決」を機に、フィラデルフィアでは多くの未成年犯罪の終身刑受刑者が釈放されることとなった。ペイスさんもその一人だ。ペイスさんは17歳で終身刑を受け、32年間の収監生活の中でリゴンさんと知り合った。
釈放される受刑者リストにリゴンさんは含まれていなかった。その理由は、リゴンさんが頑なにこだわった「自由」の形にあった。「モンゴメリー 判決」に基づき刑務所を出た元受刑者たちは、生涯付きまとう保護観察とともに、あくまでも「仮釈放」という形で釈放されている。他の市や州に行く時は許可をとらなければならず、麻薬の使用をチェックするために抜き打ちで尿検査も行われる。リゴンさんと同時に終身刑を受けた4人の少年は、収監中に亡くなった一人を除き、皆すでに釈放されていた。
なぜリゴンさんが仮釈放を拒み出所するチャンスを自ら逃すのか、ペイスさんは当初理解に苦しんだ。「長い獄中での生活から抜け出し、社会復帰することを恐れているのでは?」とすら心配した。仮釈放を受け入れれば数日後の週末には家族に会いに行けると言われたが、それでもリゴンさんは拒否した。当時、リゴンさんは主張した。「このような条件では釈放されたくない。それは私が求める自由ではない」。刑務所で死ぬことも覚悟した上での断固たる意志だった。
理由は68年前の裁判にあった。「長い獄中生活の中で、私は人を殺していないにも関わらず、全員が一括りにされ殺人者と同じ刑罰を受けたことがおかしいと思うようになった。最高裁の違憲判決も後押しとなり、私が完全な自由を求めることが不当な扱いを受けた他の受刑者を助けることにもつながると思った」
一度掴みかけた自由を自ら拒んだリゴンさんだが、完全たる自由の身での出所を諦めることは決してなかった。