6月中旬、ソウル郊外にある20年来行きつけの美容院を訪れた。
韓国では政府の指針で室内でも屋外でもマスクをつけなければいけなかったが、5月初めに緩和され、屋外では着用が義務でなくなった。ところが通りを行き交う人々をみると、ほぼ全員がマスクをつけている。
美容院のなじみの店長が愚痴った。「他人の視線が気になるんだよ。つけてないとマナーに欠けた人だとみられるのが、みんな心配なんだ。なんだか良い気分じゃないなあ」
2カ月に一度ほどとはいえ、20年以上の時間をともにしてきただけに、彼とはヘアスタイルの話だけではなく、恋愛や仕事のストレスなど隠しごとなく話せる友達のような関係だ。
40代前半の店長は若いころ体を壊したことがあり、副反応を心配して新型コロナウイルスのワクチンを一度も打っていない。だから新型コロナの感染者が多かったころに美容院を訪れる時は、マスクをつけていてもおしゃべりは一切せず、沈黙の時間だけが流れた。
6月中旬の韓国の新型コロナ感染者数は、1日あたり数千人と落ち着いていた。感染が分かると7日間の自宅隔離が必要だが、それを緩めようという議論まで出ていたほどだ。
だからだろうか。私と店長は、ずっと我慢していたおしゃべりに時を忘れるようだった。
「屋外でつけなくてもいい、っていうのは分かる。でも政府の指針だと、映画館で飲み食いをする時にはマスクを下ろしていいという。窓がなくて換気もできないから感染リスクもあるのに。よく分からないなあ」と店長。その言葉に、私は、うんうん、とうなずいた。
この数日前、映画館に行ったのだが、後ろの席からずっとポップコーンを食べる音が聞こえてきた。うるさいこともあったけれど、感染したらどうしようと心配で、映画に集中できなかったことを思い出した。
韓国ではこんなふうに「ウィズコロナ」時代に入っている。それを実感したのが、韓国に入国する仁川空港での出来事だった。
私は帰国する日本人の夫と一緒に4月から福岡にいたが、6月初めに再び韓国に戻ってきた。韓国に入る空港でのことだった。
国籍やどこから来たのか、ワクチンを打っているのかなどと関係なく、入国者は全員、隔離をしなくてよくなっていた。私が入国した6月8日は、隔離がなくなった初日だった。前日までは、ワクチン3回接種の場合にだけ7日間の隔離が免除されていた。
飛行機を降りて入国手続きを終えるまでの手続きは超スピードで進んだ。
最初の検疫の手続きは係官に陰性証明書を見せること。といっても、事前にスマホに「検疫情報事前入力システム」(Q-CODE=Quarantine Information Pre-entry System)をダウンロードして陰性証明書など必要なデータを入力しておいたので、アプリのバーコードとパスポートを見せればOK。
かかった時間は30秒ほど。この仕組みは3月下旬から始まったようだ。
その後、注意事項などが書かれた紙1枚を受け取り、入国審査カウンターに向かった。入国審査も自動ゲートで済んだ。飛行機を降り、防疫手続き、入国審査、荷物のピックアップまで、かかった時間は30分ほどだった。
感染者数が異なる時期なので単純に比べることはできないと思うが、4月に福岡空港から日本に入国した時には、空港内での検査を含めて3時間以上かかった。アプリの使い方やその後の注意事項などを盛り込んだ案内は「冊子」だった。
ソウル中心部に銀行や証券会社が集まる汝矣島(ヨイド)という場所がある。6月のある日、知人とランチの約束をし、訪れた。ビルの前にタバコを吸いに出てきた会社員らがマスクを外している姿はあったが、通りを行き交う人々のほとんどがマスクをしていた。
近くには市民の憩いの場となっている大きな公園がある。散歩をしている10人のうち3人ほどはマスクをしていない。マスクをずらした「鼻マスク」か「あごマスク」の状態だった。
韓国では山にトレッキングに行くことを趣味としている人が多い。知人の30代の男性会社員が私に話してくれたことが頭をよぎった。
「トレッキングやジョギングの時はマスクをしない方が気持ちいいですからね。でも人とすれ違うときに備えて、ネックレスのようにマスクを首からぶら下げています。いつでもつけられるように。周りの人たちへの『心配しないでね』という合図ですね」
知人と待ち合わせをした汝矣島(ヨイド)のレストランは、ランチにしては遅い時間帯だったが、満席だった。客たちは料理が出る前、なんの気兼ねもなくマスクを外し、大きな声でおしゃべりに興じている。周りの視線を意識するなんてことは全くないみたいだった。
一緒に食事をした知人は「屋外より室内の方がリスクは高いはずなのに。感染者が多かったころ飲食店では会話を控えていたけど、今ではみんな大きな声で話すのが当たり前みたい」と心配な様子だ。
ただ、そんな彼女も、ずっと控えていた夜の会食を、今では週3回入れているという。
義務でなくなった屋外ではマスクをしている人は多いのに、それよりリスクが高い飲食店内でマスクをする人がほとんどいないのはなぜだろう。
屋外では知らない人とすれ違う時、相手にどう思われるのかが心配なのだろう。店の中では、顔見知り同士、おいしい料理やお酒でおしゃべりしたい。何より長い自粛の時を経て、もう我慢なんてしたくない、とにかく楽しみたいのかもしれない。
韓国における飲食店の「ウィズコロナ」の様子は、日本のそれとはまったく違った気がする。
日本に滞在していた時、レストランやカフェでは、注文をして料理などが出てくるまで、マスクを外す人をほとんど見かけなかった。そういえば話をするときも、なるべく小さな声で話していたような気もする。
日本では、ショッピングモールやレストラン、スーパーなどの出入り口には必ず消毒液が置いてあったのを見た。そして、ほとんどの人がその前で立ち止まり、手を消毒してから入って行くのが当たり前の光景だった。
韓国のレストランなどでも、出入り口で消毒はできる。ただ、日本のようにみんなが当たり前のように手を消毒する姿はない。店員が「消毒をしてください」と言うこともない。
ヨイドでのランチには、もう一人、40代の作家の知人もいた。私がレストランの入り口で手を消毒する姿を見て、彼女が言った。「お店に置いてある消毒ってジェルが多いよね。すぐに乾かなくて気持ち悪くない?」
そして持っている携帯用の消毒液のスプレーを見せてくれた。
「あ、確かにそうだね」
私はこう答えながら、日本の飲食店の入り口に置いてあるのが、ジェルではなく液状タイプだったのを思い出した。
霧状になって出てくるものが多く、手になじませるとすぐに乾いていく感じ。ジェルのようにベトベトすることはなく、すっきりする感じだった。
さらに言うと、ほとんどがペダルを足で踏みつければ手に吹き付けることができた。韓国で不特定多数が使う消毒用ジェルの容器のポンプに手を触れる時、正直、あまりいい気分はしなかったので、このペダルを足で踏む方法は新鮮だった。
韓国の防疫当局は6月中旬、新型コロナの抗体がどれほどできているか10歳以上の一部の国民を調べたところ、94.9%に抗体があったと発表した。
ただ防疫当局は「コロナの場合、変異株が出てくる可能性があり、抗体を持つ人が90%以上になったからといって集団免疫ができたとは言いがたい」としている。
そんななか日本と同じように韓国でも感染者が急増し始めている。7月11日の新規感染者数は3万7360人に上る。防疫当局は「新型コロナの流行が再び拡大傾向にある」としており、マスク着用を含めた防疫指針が改めて議論になる可能性もありそうだ。
今後も感染の広がりをいかに防ぐか。影響は芸能界にも波及した。
数年前、日本をはじめ世界で流行した「江南スタイル」という曲を歌ったのがPSY(サイ)という韓国の歌手だ。最近、彼の全国ツアーが韓国で大きな話題になった。
PSYのコンサートは、夏真っ盛りの暑さの中、主催者側が観客席に向かって水をかけるのが「お約束」。客は水を浴びながらコンサートを楽しむというのが昔から有名だった。この「水浴びコンサート」が、新型コロナによる中断を経て、7月から再開される予定だ。
ところが、屋外のマスク着用義務はなくなったが、50人以上が集まる集会や公演、スポーツ競技では、声援など飛沫が出て感染のリスクがあるとして、今もマスクをつけなければいけない。
PSYのコンサートでもマスクをつけなければいけないわけだが、水で濡れると感染リスクが高まるのではないか。そんな問題が提起されたのだ。
防疫当局は「水に濡れたマスクはウイルス繁殖の危険性が高い」とうのだ。「できれば水をかけない形でコンサートが行われることが望ましい」とまで言ったものだから、PSYの所属事務所から「無料で『防水』マスクを配る」との発表まで飛び出した。
ウィズコロナがもっともっと広がってほしいという期待は韓国の社会全体で大きい。しかしそれと同時に不安や心配の声もある。市民も防疫当局も、同じ気持ちだろう。
日本も韓国も、四季がはっきりとしている国だ。やがて訪れる暑い、暑い夏は、とても湿気が多い。この夏が、マスクをどうするのかも含めてウィズコロナへの一つのポイントになるのかもしれない。
美容院の店長と私のおしゃべりは続いている。
店長がこんな提案をしてきた。
「マスクとか消毒とか防疫をどうするかは、それぞれの考え方次第だと思う。今日パーマをするとき、もし苦しいようだったら、マスクを外していいよ。本当は室内ではまだ義務だけど、常連だから。他のお客さんもいないし……」
おおっ。つい何カ月か前まで、店に予備のマスクや消毒用ジェルを置き、厳しい目つきで「マスクをつけてください」「消毒をしてください」と言っていたあの店長が、ここまで変わるとは。
でも、私はずっとマスクをつけていた。
マナーに欠けた人にはなりたくないから?
いえいえ。店長と私自身を守りたかったから。