朝鮮中央通信によれば、北朝鮮で9日、田植えが始まった。「田植え戦闘」とも呼ばれ、都市や軍などから支援する人々が農村部に送られる。外貨稼ぎ担当の党幹部だった脱北者の1人は「数週間から1カ月、農村に寝起きして農作業を手伝う。昔は食事は農村が準備してくれたが、今は全部手弁当。行きたがらない人も多い」と語る。
ところが、今年はこれができない。コロナの発生だ。朝鮮中央通信によれば、12日午前から、全国で地域別に完全封鎖(ロックダウン)された。事業、生産、居住などの部門別に隔離され、厳格な全住民集中検診が行われているという。
朝鮮中央通信は12日、「平壌の団体で8日、新型コロナウイルスのオミクロン株に感染した人が確認された」と報道。19日には「18日午後6時までの全国的な総数は、発熱者197万8230人あまり」と伝えた。これが何を意味するのか。韓国政府関係者は「全国に検査キットが行き渡っていないという意味だ」と語る。
この関係者によれば、北朝鮮が現時点で確保している新型コロナの検査キットは5万~10万回分程度だという。同時に、3千人前後とされる平壌の党や軍、政府幹部が半年間ほど検査を受けられる体制を作っているため、地方の一般市民が検査を受ける体制ができていない。
ソウルのNGO関係者も「北朝鮮が過去2年、実施した検査は約10万回。欧州各国の1日あたりの検査能力の3分の1に過ぎない」と語る。日本の場合も5月現在、1日40万回以上の検査能力がある。
「平壌で感染した人が確認された」のは、「検査を受けられる身分の人まで感染した」ということを意味する。北朝鮮が「感染者」ではなく、「発熱者」で計算しているのは、全体を検査できない事情があるからだ。
このため、北朝鮮当局は無症状の感染者がさらに被害を拡大させる事態を憂慮しているとみられる。北朝鮮ではワクチンを冷凍・冷蔵して輸送・保存するコールドチェーンもない。過去に新型コロナウイルスのワクチン供給を断っている。別の韓国政府関係者は「人口規模やワクチン接種状況が似ている他の国と比べた場合、最悪で10万人程度が死亡することもありうる」と語る。
北朝鮮のワクチン対策会議の映像をみると、金正恩氏が2人の男性を立たせて指示を飛ばしていた。2人は李善権外相と金成男党国際部長とみられる。おそらく、中国やロシアから検査キットやワクチン、治療薬などを入手するよう指示していたとみられるが、すぐに十分な量を確保できないかもしれない。
結局、北朝鮮が取り得る手段は「隔離と統制しかない」(元党幹部)。症状の有無を問わず、厳格なロックダウンを実施し、しばらく様子を見るしかない。当然、田植え戦闘のための大量動員は不可能だろう。
農業問題に詳しい脱北者によれば、稲作には田植えから100日程度かかる。北朝鮮では9月半ばから急速に気温が下がるため、6月初めまでに田植えを終える必要がある。
だが、コロナの影響で田植え戦闘の動員率が30%程度に落ち、5月20日現在でも田植えを終えた場所は全体の3~4割にとどまっている。この脱北者は「7月初めまで田植えが終わらないという話もある。今年のコメの生産に大きな影響が出そうだ」と語る。
北朝鮮は元々、今年の農作物の収穫に不安を抱えていた。国境封鎖措置によって農機具や肥料の輸入が滞っていた。米政府系放送局「ラジオフリーアジア」は10日、北朝鮮では降水量が不足し、春の麦の収穫に深刻な影響が出ていると伝えた。
韓国政府関係者の1人は「これでコロナが加われば、秋の収穫に深刻な影響が出ざるを得ない。金正恩が『建国以来の大動乱』と語ったのは、偽りのない気持ちだろう」と語る。
元々、北朝鮮の農村は「田植え戦闘」などで大量動員をかけなければならないほど、劣悪な環境に置かれている。
南北関係を長く担当した韓国政府元高官は十数年前、北朝鮮の農村を訪れた。舗装された道路はなく、田畑には雑草が生い茂っていた。農作業は主に女性がやり、男性は監督など楽な仕事に就いていた。家屋には壁紙はなく、むき出しの土壁のなかに住んでいた。土間には木の枝などで煮炊きする窯があった。水道はなく、水は近くの井戸や川からくんで使っていた。
北朝鮮の農業事情に詳しい脱北者は「朝鮮の農村は、金日成時代の改革で多少マシになったが、それでも1960年代の韓国くらいの生活水準だろう」と語る。電気は、水力発電が使える夏には1日1時間ほど通電するが、冬場は全く通じないという。「白黒テレビくらいなら、北朝鮮の農村にもあるが、電気が来ないから使えない。農民たちの夢は自由にテレビを見ることだ」と語る。
北朝鮮では1990年代後半から市場が盛んになったが、農村部にはほとんどない。豚や鶏などを飼わない限り、肉類を食べることも難しい。脱北者は「(旧正月や旧盆といった)名節に食べるくらいだ」と話す。
機械化も遅れているため、肉体労働の比率が高い。北朝鮮のトラクターは1990年代に開発された28馬力の千里馬(チョンリマ)トラクター。燃料や備品が足りず、十分な働きができていない。黄牛(ファンソ)と呼ばれる農耕牛も使われているが、飼料が十分行き届かず、数も不足している。電力不足などから、化学肥料や除草剤などの生産も十分ではない。金正恩氏はすでに21年6月の会議で「食糧事情が緊張している」と認めたことがある。
金日成主席のフランス語通訳を務めた韓国国家安保戦略研究院の高英煥元副院長は、北朝鮮が今年初め、トウモロコシの代わりに稲や小麦の栽培を進める方針を示したことにも不安を覚えるという。高氏によれば、金日成主席は「トウモロコシは畑の穀物の王様だ」と言って、栽培を推奨した。金日成氏は自宅に菜園を作り、様々な作物を植えていたという。高氏は「トウモロコシは成長力があり、寒冷な気候に耐えられるが、コメや小麦はそうはいかない。1ヘクタール当たり、トウモロコシは4トン収穫できるが、小麦は2トン未満になる」と語る。
韓国の民間農業専門研究所、GS&Jインスティテュート北韓・東北アジア研究院の権泰進院長によれば、日本統治時代には北朝鮮東北部でも小麦の生産が広く行われていた.権氏は「小麦を秋に植えて、初夏に収穫すれば、トウモロコシとの二毛作が可能だ」と語る。だが、二毛作の場合、残草の処理や肥料の投入、労働力に負担がかかる。
農機具不足、肥料不足、降水量不足に加え、新型コロナウイルスのために人手不足まで重なり、北朝鮮の農業は今、「不足の四重苦」にあえいでいる。