テヘラン北部の喫茶店内に水たばこの白い煙とともに甘い果実の匂いが漂う。テーブルの向こう側で、イランで親しくなった東アジア出身の知人が、母国の銀行で味わった厄介な体験を話し始めた。
知人はイランに赴任することが決まると、銀行に出向いて住所の変更を願い出た。すると、窓口の行員に「口座の閉鎖手続きを取る」と告げられ、それっきり使えなくなった。「転勤先をイランと伝えたのが失敗だった。その銀行はアメリカ系だったから過敏な対応をしたのだろう」
米政府はイランの銀行を制裁の対象にしている。イラン中央銀行をはじめ、国際送金を担う大半の銀行がその対象だ。アメリカの銀行はイランの制裁対象と取引した場合、巨額の制裁金が課せられる恐れがある。
アメリカの制裁は網が広く、違反を問われるのはアメリカの銀行に限らない。過去には邦銀でも米制裁に違反してイランと取引し、多額の制裁金を払った例がある。
日常生活にも影響が出る。イランで買い物する際、ビザやマスターといったクレジットカードは一切使えない。日本の銀行口座からイランに送金することも不可能だ。だが、こうした不便さよりも大きな問題が、深刻な経済不況だ。
アメリカのトランプ前政権は2018年5月、一方的に核合意から離脱した。8月には、核合意の履行に伴い緩和されていた制裁を再開した。
イランは原油の輸出が制裁の対象となり、日本を含めた取引先を失った。歳入の柱がなくなって財政難に陥り、物価の高騰となっていま、家計を直撃している。
私がテヘランに赴任して1年半余りの間に、よく買う6枚入りのパンは価格が3倍になった。ノートに貼ってきたスーパーのレシートを見ると、牛乳や卵、バター、米、パスタといった品々が一様に値上がりしている。
イラン政府の統計でさえ、物価の上昇率は年率4割ほどもある。だが、実際にはそれよりもさらに、あらゆるモノやサービスの値段が上がっているという感覚が一般的だろう。
日本よりも物価は全般的に安いが、価格のゼロが一気にひとつ増えるような状況を前に、私もやむなく買い控えることが増えた。
私でさえ憤りを感じるのだから、イランの人たちはかなり怒っているはずだ。 テヘラン南部の住宅街に向かった。そこは裕福とは言えない層が多く暮らす。
細い道沿いにあるパン工房から、焼きたての商品を抱えた買い物客が出て行く。職人歴25年のマフディ・サデキさん(40)がパン生地を手早く、窯に通じる回転板の上に載せる。生き生きとした動きとは対照的に、表情は暗い。
「今後の値上げは確実で、お客さんは買う量を減らすだろう」
理由は、原料となる小麦の価格高騰だ。米制裁で不況が長引くなか、2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻や水不足による小麦の不作に加え、4月下旬にはイラン政府が小麦を扱う業者に支給してきた補助金が打ち切られた。
こうした影響は、パンやパスタの店頭価格の値上がりとしてすぐにあらわれ、わずかな間に3倍になった例もある。
問題は物価にとどまらない。私の1歳の長男がテヘランで生活を始めてまもなく発熱し、下痢になった。総合病院を受診すると、医師に3種類の医薬品を処方された。ところが、その院内薬局ですべての薬が手に入らない。外の薬局を4軒回ってようやく薬をそろえられた。
薬局の販売員カーベ・エスラムドストさん(27)は、「薬不足は制裁の影響だ」と断言した。イランでは薬の原材料の多くを輸入に頼るが、制裁のあおりで資金不足となり、入手が難しくなったという。
医薬品は人道上の観点から制裁の対象外とされる。それでも、外国企業がイランと取引を控えることは珍しくない。在イランの外国企業の関係者は「何が制裁の対象になるのかは、アメリカの意向次第という実情があるからだ」と説明する。
相手企業が制裁の対象外だったという認識で取引したものの、実は制裁対象や関係先で、違反と認定される恐れも残るという。
近年のイラン経済は、制裁に大きく左右されてきた。
イランは1979年に成立した革命以後、反米思想がその基軸にある。アメリカは、核やミサイルを開発し、中東地域の武装勢力を支援するイランを厳しく非難し、態度を変えさせようとした。
その手段の一つが経済制裁だ。アメリカや国連などは06年以降、イランが核兵器を開発していると疑い、次々に制裁を科した。イラン経済は苦境に陥り、国民の不満が高まった。
こうしたなかで行われた2013年の大統領選では、国民の不満を無視できなくなったイスラム革命体制側が、それまで国際社会の声を無視して核開発を推し進めた保守強硬派とは異なり、国際協調を唱える保守穏健派の立候補を容認したと理解できる。
有権者が選んだのは穏健派のロハニ師で、国際社会への復帰と制裁の解除による経済回復の期待がにじみ出る結果となった。
イランが15年7月にアメリカやイギリス、フランス、ドイツ、中国、ロシアの間で締結したのが核合意だった。16年1月に履行されると、イランは核開発を制限する見返りとして、アメリカなどからの制裁が緩和された。
イラン経済は急回復した。欧州各国と巨額の事業契約を次々に交わし、日本企業もビジネスを再開した。イランの実質国内総生産(GDP)は16年にはプラス成長に転じた。
そんな好景気は、トランプ政権の制裁再開によって一瞬のうちに過ぎ去ったのだった。イランは制裁に加え、18年11月には国際銀行間通信協会(SWIFT)から排除され、国をまたぐ送金がますます、そして著しく困難になった。
イランは、国内産業の活性化による「自活」で制裁に打ち勝つ方針を掲げてきた。制裁のおかげで競合する外国企業がいなくなる「恩恵」を受け、成長した業界もある。
1カ月間の断食月(ラマダン)が終わった直後の5月、テヘラン北部にある国際展示場に、美容品や衛生用品を扱う国内270社以上が集まった。敷地内にある七つの広々としたホールの各ブースで、各社の担当者が来場客に商品を熱心にアピールしている。
香水の甘い香りが漂い、空港の免税店を思わせる会場の一角で、テヘランに本社を置く化粧品会社が出展していた。08年設立の同社で販売部長を務めるケイバン・ベイキさん(38)は、「ここ数年で展開するレーベルは一つから四つに拡大し、従業員数は倍増して60人になった」と説明した。その理由を尋ねると、「外国のライバル企業が不在という恩恵がこのまま続くことを願っている」と返ってきた。
「自活」の方針がどこまで成功しているのか定かではないが、イランのGDPは20年から再びプラス成長に転じている。
コロナ禍や制裁下でもやっていけるという自信が芽生えたのか、制裁緩和につながる核合意の復活を探る協議でも、アメリカに対して譲歩する姿勢を見せない。
生活への不満を背景に、イランでは反政府抗議デモが起きている。たが、いまのところ、アメリカが目指すような、イランのイスラム体制そのものを揺るがす勢いや広がりはなく、米制裁の「効果」は見えてこない。
制裁でイスラム体制は揺らがなくても、その打撃を最も受けるのは困窮している人たちだ。テヘランで商店を営むアフマド・トラビさん(62)は、「貧しい人はさらに貧しくなっている」と話す。菓子やジュースはもはやぜいたく品で、肉製品や牛乳、卵といった食卓の必需品でさえ、買い控えが常態化したという。