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公園を埋め、そして消えたイラン人 あの波は日本に何をもたらしたか

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代々木公園の入り口は、多くのイラン人でごった返していた=西山毅・写真/文 「東京のキャバブのけむり」(ポット出版発行、径書房発売)より

30年ほど前、大勢のイラン人が日本にやってきた。携帯もネットもまだ普及していないころ。彼らは週末ごとに東京の代々木公園や上野公園に集まり、その後は潮が引くように消えていった。あの波は日本社会に何をもたらしたのか。日本が外国人の就労を拡大するいま、考えてみたい。(朝日新聞論説委員・平田篤央、文中敬称略)

■欧州に渡った 2人の明暗

2001年秋から04年春までテヘランで暮らした私にとって、イラン人は親日家という印象が強い。だれもがテレビドラマ「おしん」(*1)を知っているし、「ヒロシマ」を口にする。

  • (*1)1983年~84年に放映されたNHKの朝ドラ。戦中、戦後の混乱期を生きる女性を描いた。イランではイラクとの戦争中に放送されて共感を呼び、放送中は街から人影が消えるほどの人気に。

それだけに、1990年代初めに起きたことが心のどこかにつかえていた。当時、メディアは「公園がイラン人に占拠された」とセンセーショナルに報じた。変造テレホンカード(*2)や薬物取引など犯罪がらみの報道ばかり目立った。

  • (*2)公衆電話用のプリペイドカード。国際電話ができるカード式公衆電話もあり、無制限に使えるよう細工された変造テレカが問題となった。

行政は公園から彼らを排除し、さらには入国にビザを義務付け、不法滞在を厳しく取り締まった。まるで異物を排除するかのように。「親日」の裏には、別の感情が隠れているのではないのか。

祖国とつないだのは公衆電話だった=西山毅・写真/文 「東京のキャバブのけむり」(ポット出版発行、径書房発売)より

それを確かめるため、私はまず北欧のスウェーデンに向かった。91年に20代後半で来日し、15年間過ごしたシェイダ(仮名)に話を聞くためだった。彼は特別な苦労をしていた。本名も住んでいる街も明かさない約束で取材に応じた。

「あんな国だと知っていたら、絶対に行かなかった」。予想はしていたが、いきなりそう断言され、さすがに複雑な気持ちになった。

シェイダはゲイである。日本でカミングアウトし、同性愛者の権利を訴える集会などにも積極的に参加した。イランを離れた理由でもある。79年の革命後、イスラムの教えに基づく国づくりを掲げたイランで同性愛は死刑なのだ。

2000年、路上で職務質問され、不法残留を理由に逮捕された。収容されたのは茨城県牛久市の入管施設だ。強制送還される恐れがあるため難民申請した。ゲイの団体などの支援も受けて最高裁まで争ったが、結局認められなかった。

幸いだったのは、裁判闘争の間に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)がシェイダを難民として認定したことだ。05年3月に日本を離れた。

シェイダは、自宅近くの湖によく出かける

日本の15年間はつらかったという。

「東京でアパートを借りようとしたら不動産屋がペットとガイジンはダメだって。入管の施設では、歯が痛かったのに1年も医者にかかれなかった」

スウェーデンでは大学で学び看護師になった。通訳の資格もとり、いまはボランティアでアフガン難民の通訳もしている。学費は無料で、仕事を得るまでは生活費も国から支給されたという。

「この国にガイジンはいない。出身地や顔かたちが違っても同じ国民なんだ」

一方で、日本が自分の人生をいい方向に変えた、という人物にオーストリアの首都ウィーンで出会った。

フェレイドゥン・ナミニは88年末、28歳のときに来日した。転々としたのち、バブル景気に沸く渋谷のカフェバーに飛び込みで入って雇われ、夜間営業のマネジャーを任された。夕方6時から朝5時まで働き、昼に起きて空手の道場で練習して、再び店に行く毎日。

「規律正しさ、時間厳守、制度がちゃんと機能すること。日本は本当に素晴らしいと思った」

ウィーン中心部の事務所で自席に座るナミニ

94年にイランに戻った。日本では額面で月40万円ほどの収入を得て、親のためにテヘランにマンションを購入した。だが、イランの生活になじめなかったという。「時間を守らない、お客さんを尊重しない。日本で私の体に染みついた性格と合わなかった」

2年後にハンガリーのビザが取れ、そこからウィーンに移った。武道教室のトレーナーをしながら、ハイヤーの運転手に。教室の教え子だったオーストリアの女性と結婚して、子どもが2人。いまでは自分でハイヤー会社を経営する。

「日本で学んだことが仕事に役立っている。違う考えのイラン人もいるだろうが、私にとって日本には感謝しかない」

■「右腕」に裏切られた日本人

私の心はシェイダの言葉にざわつき、ナミニの話にほっとした。だが、二人とも祖国を離れ日本に来たことで、人生が大きく変わったことに違いはない。

イラン人を調べるうち、日本人の中にも、あの時代に人生の方向性が決定づけられた人がいると知った。

ノーベル平和賞を受賞した核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の国際運営委員、川崎哲(50)である。

昭和から平成への代替わりのころだった。川崎は大学生で、学生仲間が天皇制を考える活動をしていた。ローラー族(*3)など若者が集まる原宿の歩行者天国に出向き、メガホンで訴えているとイラン人が寄ってきた。賃金が支払われない、労災保険が下りないなどと口々に窮状を訴えたという。

  • (*3)80年代に代々木公園横の歩行者天国でブームとなったパフォーマンス集団のひとつ。リーゼントに革ジャン姿でロカビリーに合わせて踊った。

「おい川崎、彼らの支援をしよう」。そう誘われ、活動を始めた。日曜に代々木公園でチラシをまき、木曜の夜に高田馬場のマンションの一室で労働相談を受けた。「玄関が靴であふれかえるほど、次から次に来る。もう収拾がつかないほどでした」 勤め先を聞き、一軒一軒、一緒に訪ねては賃金を支払うよう交渉した。多くは関東の地方都市にある下請けや孫請けの小さな建設会社だった。

この活動で世の中のたいていのことは学んだ、と川崎は言う。しかし、一番学んだのは人間には裏表があるということかもしれない。最も信頼していたイラン人に裏切られたのだ。

チラシづくりや労働相談の通訳など、右腕として働いてくれていた男性だ。池袋にある、中華料理で使うピータンの工場で働いていたが、突然姿を消した。留守番電話に「川崎さん、ごめん。ありがとう」と残して。

その後、「あいつに金を貸していた」という苦情がイラン人の間から相次いだ。男性は、労働相談が殺到するなかで「優先してやる」といった口利きで100万円単位の金を稼いでいたらしい。

善人ばかりではないのが現実だ。そんな冷めた見方も身につけた川崎はその後、核廃絶や国際交流のためのNGO活動に入っていった。

川崎が代々木公園のイラン人と向き合っていたころ、東大医学部の保健社会学教室が上野公園に集まるイラン人を調査した。リーダー格が、大学院生だった若林チヒロだ。いまは埼玉県立大教授として、日本に暮らす外国人の生活などについて教えている。

通学路でもあった上野公園に集まるイラン人に興味を覚えた。92年に、ペルシャ語でつくった調査票を配って回収した。特に自由回答欄はつくらなかったが、欄外にいくつも書き込みがあった。

「どうしてイラン人をうそつきと言うのか」「全世界から来る外国人が問題なく働いているのに、なぜイラン人だけが問題にされるのか」「日本人には愛情と感情がない」

ただ、上野の商店街などで日本人に聞くと、意外な答えが返ってきた。

「自分も田舎から出稼ぎで上京して、苦労して商売を始めたとか、工場を経営したとか、そういう経験と重ねて『あいつらの気持ちはわかるんだよね』と。単純に排斥というわけでもなかった」

だが、その後の世代には、そうした感覚は失われているのではないか。そう尋ねると、若林は最近の学生の冷淡さが気になるという。

「『私、中国人は嫌い』なんて平気で言い切る。バイト先で同僚が外国人というのが当たり前になったせいもあるでしょうが、危うさを感じます」

平成最後の日曜日となった、4月28日の公園入り口。日本人に交じって、欧米や中国、韓国などの観光客の姿も目立っていた

かつてイラン人の急増に日本人が戸惑った時代と異なり、いまや都市部では外国人の姿は当たり前になった。自然に接する若者も増えていると思うのだが、自分たちを脅かす存在として反発する気持ちも強まっているのだろうか。

■「い集」と呼ばれた人々

バブル景気で人手不足のころ、日本にやってきたのはイラン人だけではなかった。なのに、なぜ彼らだけがあれほど目立ったのだろうか。

「犯罪の温床となった不法滞在者のい集」。当時の警察白書に、そんな記述があった。いわく、90年末ころから目立ちはじめ、2年後には代々木公園などで顕著となった。周辺住民や施設利用者から苦情が寄せられ、地域の治安問題となった……。

「い集」とは何だろう。辞書で調べると「蝟集(いしゅう)」。蝟はハリネズミのことで、その毛のように寄り集まる様を表す。まるで動物扱いである。

イラン人が集団で人目についたことについて、当時代々木公園でフィールドワークを行った一橋大教授の町村敬志は、特殊な事情があったからだと説明する。

80年代半ば、同様にビザ免除協定のあったパキスタン人、バングラデシュ人が先行して来日。各地に集住地域が生まれ、そのネットワークを頼って同胞が続いた。その後、90年の入管法改正で、ブラジルなどの日系人に特別な許可が認められ数万人単位で来日したが、多くは受け入れ企業が決まっていた。

後発組のイラン人の場合は、日本に受け入れるネットワークがなかった。私の知る限り、イラン人の多くは内心は世俗的だ。外国で礼拝のためモスクに集まるということもなかったようだ。

さらにバブル崩壊も重なり、働き口は激減。携帯やネットもないなか、公園という開かれた空間が彼らの「ハローワーク」となった。それが日本人の好奇の目にさらされたのである。

いまも日本に住むイラン人たちは、どう思っているのか。

知り合いのつてで、千葉県四街道市でイラン人の経営するレストランに集まってもらい、10人ほどに話を聞くことができた。ほとんどが日本人の女性と結婚して定住し、中古車販売や空調設備会社などを営んでいる。

来日当時は若者だった彼らも、いまでは髪の毛に白いものが目立つ

話が差別を受けたかどうかに移ると、彼らの間で議論が熱を帯びた。

「けがしても私たちは働かないと生活できない。10年くらい前、松葉杖のまま働いていた」「たくさんのイラン人が1週間くらいで国に戻された。品川の入管施設から、油だらけの作業服のまま帰らされたんだ」

好意的な意見も出た。「でも市役所で日本語を教えてくれたボランティアの先生に出会えたのは本当によかった。日本語の能力試験に合格したとき私たちよりもうれしそうな顔をしてた。そんなのイランにはないよ」

日本に来て30年近く。私には、社会に根を下ろした彼らに対して、いまでも偏見が向けられているかが気になった。

一人が口を開いた。「いまだに納得できないこともある。きちんとした仕事を日本の会社より安くしているつもりだけど、カタカナの名刺を見ると、えっという反応。日本人の何倍もがんばらないと認められない」

来日した当時20代だった彼らのほとんどはいま50代。実は私と同世代である。それも、彼らのことが気になっていた理由の一つだ。

いまの悩みはパスポートだという。奥さんと子どもは日本だが、自分はイラン。イランと国交のないアメリカに家族で一緒に旅行できない。日本国籍の取得は難しく、できたとしても祖国の国籍を捨てなくてはならない。

革命で国の体制が変わり、8年にわたる戦争に従軍し、異国にひとり渡り、摘発におびえながら働き、人を愛し、家族をつくる。その一人一人の物語に、私の想像力はどこまで及ぶだろうか。

そう自問するうち、もう一人、想像を絶する人生を歩んだイラン人に出会うことになった。

■絶望を乗り越え「架け橋」に

病院のベッドで意識を取り戻したとき、モハメド・パシャイは自分の足は切断されたと思った。恐る恐る手でさぐってみると足はあった。しかし感覚はなく、まったく動かない。

事故が起きたのは04年。道路舗装のためロードローラーをトラックの荷台から降ろそうとしたときのことだ。固定が甘かったらしく、ローラーごと転落し、パシャイは下敷きになった。

下半身不随で、回復の見込みはない。そう医者から告げられたパシャイは「もう生きていても仕方ない」と絶望した。

91年に22歳で来日し、神奈川県秦野市の土木工事会社に勤めた。イランの首都テヘラン近郊の街カラジで、父親はれんがをつくる会社を経営していた。母国に帰ったら日本の工事技術を伝えたい。そんな夢もすべて消えた、と思った。

気持ちが変わったのは、厚木市の神奈川リハビリテーション病院に移ってからだ。自分よりも大変なケガをした人が日常生活をおくるため努力している。その姿に、少しずつ前向きになれたという。

「多くの支援に感謝したい」と話すパシャイ

8カ月後に退院し秦野市のアパートで暮らし始めた。労災保険の障害年金で、ぜいたくしなければ生活していけた。だが、イランに戻れるのだろうか。

母国の兄に電話すると、「日本にいたほうがいい」と言われた。イラクと戦争したイランでは、戦場で負傷した人への支援は手厚い。だが交通事故や労災などで障害を負った人は、社会で居場所を見つけられないのが現実だという。

07年に帰国して実情を目の当たりにし、パシャイは自分に何かできないかと思うようになった。日本では古くなって使われない車いすや電動車いすなどは、イランではまだ十分役に立つ。イラン人の仲間や病院などに呼びかけて、中古車いすなどの提供を求めた。

手伝ったのが看護師の大澤照枝(62)だ。リハビリテーション病院の依頼で、在宅看護を担当。驚いたのはパシャイの積極性だった。「障害を負った人は、うつ状態になる人も少なくない。ところが、他人のためにボランティアをしたいというんですから」

ケアマネジャーらにも声をかけ、できたのがパシャイが理事長の「イランの障害者を支援するミントの会」だ。イラン人が飲むお茶にミントが入っていることから、大澤が名前を考えた。10年に特定非営利活動法人となり、助成金も得て活動を広げていった。今では、カラジ市などからの要請を受け、街のバリアフリー化を進めている。

パシャイから何度も「イランに行ってくださいよ」と声をかけられたのが、理学療法士の土屋辰夫(66)だ。

「時間がないから」と断っていたが、15年3月に退職すると「もう言い訳がきかないな」とイランを訪れた。実感したのは、リハビリが軽視されていることだった。日本の知識や技術を途上国に伝える余地は大きいと考え、いまJICAのシニアボランティアを務める。

大事故にも悲観せず、日本人を巻き込んでイランと日本の架け橋としての活動を続ける。パシャイの人間的な魅力とバイタリティーならではだろう。

そう、彼らは決して「労働力」ではない。一人の人間なのだ。「あのイラン人たち」という集団として捉えるのではなく、一人一人のその後を追って見えてきたのは、そんな当たり前の事実だった。

この4月に改正入管法が施行された。人手不足が深刻化している介護や建設など14業種について、5年間で最大34万人の外国人を受け入れる見込みだ。私たちは、彼らを「人間」として受け入れる準備はできているだろうか。(つづく)

■イラン出身の俳優サヘル・ローズさんが日本に来たのは、東京の公園に大勢のイラン人が集まっていた、まさにあの時代でした。幼い頃にイランを離れた彼女に、祖国はどう映ったのか。「イランと私」について聞きました。

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■イラン人の波、バブル期に急増

1979年のイラン革命以降、米国や欧州への移民が多数発生した。8年におよんだイラン・イラク戦争が88年に終結すると、兵役を終えた多数の若者が戦後の不景気で職にあぶれ、ビザ無しで渡航できる数少ない西側先進国として日本が注目された。

イラン人来日の波は短期間で終わったのが特徴だ。バブル景気が崩壊したことや、公園に集まるイラン人の犯罪などがクローズアップされたことから、日本政府は92年にイランとのビザ免除協定を停止する。その年だけでイラン人1万5000人近くが強制退去させられ、イラン人の姿はあっという間に消えていった。