イランの週末は木曜日に始まる。5月10日も、いつもと変わらぬ週末だった。首都テヘランの夕刻はラッシュアワーで、西テヘラン広場も帰宅を急ぐサラリーマンや夕食を楽しみにレストランに行く人々でごった返していた。
若いストリートミュージシャンが、車いすに座ってアデルの「サムワン・ライク・ユー(Someone Like You)」を歌っていた。頭には野球帽、隣にはシスター(姉または妹)がキーボードを演奏していた。
通りがかりの人が「歌詞は分からないけれど、美しい歌だね」と一緒に歩いていた友人に話した。ついで見事なひげの男が、焼き立てのパンを抱えて通り過ぎた。そばの地下道では、10代の若者2人がたばこを吸いながらクスクス笑っていた。
米国の大統領ドナルド・トランプがイランと欧米中国など主要6カ国との核合意から離脱を表明したのは2日前の5月8日。トランプは核合意に伴って解除した対イラン制裁を復活させる大統領令に署名した。この署名がイランにどんな変化をもたらすのか? 何千マイルも離れたイランの日常をみていると、制裁復活のことなどすっかり忘れたかのように、いつもと変わらぬ光景だ。
イランで生きていくということは、ジェットコースターに乗りながら生きていくようなものだ。普通の人では、自らの意思で人生を切り開いていくなんてできそうになく、常に時の指導者、ある時には外国の指導者が操縦するジェットコースターに何とかしがみつきながら乗り続けるしかないのだ。
「僕らの声を聴いてくれた人など一人もいなかった」。33歳の工科大学生、アリ・アクバリは言った。見事なひげに囲まれた口から出てきたのは「ここではそうなっているのだ。だから、流れに任せるしかないのだ」というあきらめの言葉だった。
1979年のイラン・イスラム革命。続いて起きた対イラク戦争は、8年間にわたった。戦争が終わっても米国のイラン制裁は終わらず、国内では反政府デモも頻発した。
2015年、イランは核開発問題で米、英、仏、独、中国、ロシアとの6カ国協議で最終合意し、16年1月に制裁が解除されたが、トランプが離脱を表明。イランはまたもや乱気流に投げ込まれた。核合意はイラン国民にとって、平和と繁栄につながる希望の道標だった。一般市民は、少なくとももっと自由な空気が流れるようになるだろうと期待していた。国内経済は腐敗と不正がはびこって落ち込んでいるというのに、かすかな希望は制裁復活に逆戻りした。
この日(5月10日)、土漠の中にあるカシャンの裁判所の法廷では、弁護士で人権活動家のナスリン・ソトデーが、ヘジャブ(イスラム女性の髪をおおうスカーフ)の強制に抗議して起訴された女性の弁護をしていた。ソトデー自身、何度も逮捕され刑務所に収容された経験がある。携帯電話で彼女に聞いてみると、政府に批判的な人々にとって、核合意は確かに一服の清涼剤だった、と言った。
「トランプの離脱表明はイランの強硬派を勢いづかせました。彼らは国内の穏健派への攻勢を強めるでしょう」と彼女。「人権活動をしていくにはひどい日々が待ち構えていると思います」と語った。
テヘランでも同様の意見を耳にした。ビジネスマンのハミドレザ・ファラジ(35)も強硬派の台頭を恐れて怒っていた。
ファラジは15年の核合意後、市内で香水の店を開いた。イランの指導部も外国からの投資を約束していたし、商売もなんとか先行きの見通しが立ち始めていた。
「もっと市中に金が回るようになれば、香水も売れるようになるだろう、と思っていた」。店内の椅子に腰かけて、ファラジは言った。だが、客はほとんど来ず、たまになじみの客が来ると大幅に値引きして売っていた。これ以上の赤字は出せず、最近、ついに閉店した。
「核合意は、米国とイランの強硬派の手で握りつぶされようとしている。私たちは合意が紙くずになるのを見ているだけだ」。ファラジはそう言った。
それでも、市民は苦境に耐えてそれなりに生きてきた。イスラム革命が起きても、戦争が長く続いても、制裁下でも。
先述の大学生アクバリは、トランプの離脱表明のニュースを聞いても、別段驚かなかった。翌9日もいつも通りに大学に行き、授業を受けた。クラスメートがトランプの話をして「また、制裁が戻ってくる」と言ったが、「僕の最初の反応は、物価がまた上がるだろう、今度はもっとひどくなる、だった」とアクバリ。肩からイヤホンがぶら下がり、そこからヒップホップの大きな音が流れていた。「ヒップホップが好きだ。不満解消には最高だ」と言った。
テヘランの地下鉄の駅は人でごった返していた。両手に買い物袋を持った男はマルジエ・ミルザエという医師で、娘の仕事がないか私(記者)に聞いてきた。「私の娘は大学で工業経営を学んでいて、本当に優秀なのだ。でも、紹介されたのは薬局勤務だけだった。それも月給は100万トマン。これがいくらか分かるか?」とミルザエ。私が「だいたい150ドル(1ドル=109円換算で約1万6千円)」と答えると、彼は「そんな月給で働けると思うか?」と言った。
もう一人、アミールとだけ名乗った男に話しかけた。36歳で、2人の息子がいる。ショッピングセンターの小さなブースで、水たばこのキセルや「ジッポー」のライターを売っている。トランプの決定について聞くと、最初は「そんなことは話したくもない」と言ったが、一呼吸おいてから「おれたちの指導者たちはいつも、相手かまわずけんかしている。おかげで、おれたちの生活はひどいものだ」と言った。そして、どうせ書くなら次の言葉を書き忘れないよう、念を押した。「おれは普通の暮らしがしたい。イランからの伝言。アミールは普通の暮らしがしたい」と。
イランでは17年の12月から18年1月にかけ、80を超える都市で抗議デモが繰り広げられた。テヘランでも行われたが、地方都市に比べて規模は小さかった。中間層の人たちは、今回の抗議は明確な目標がなく、単に不満と怒りのはけ口でしかないと感じていたようだ。
そのテヘランのデモに参加した女性に、トランプの離脱表明について聞いてみると、彼女は「トランプを憎んでいる」と言った。機会があれば次のデモにも必ず参加する、と断言した。彼女は報復を恐れてシャディとだけしか名乗らなかったが、28歳のピアノ教師で「人びとは不安定な現状を恐れている。どんなに小さくてもいい、生きていく支えが欲しいのです」と言った。
「私のスローガンは今も変わっていない。パン、仕事、そして自由。トランプや(イラン政府の言う)『国民の団結』ではどうにもならないけれど」とシャディ。
他の人びとに聞いてみても、トランプとイラン指導部を批判する声は多い。ヘジャブの店で働いているファトメ(22)も姓は教えてくれなかったが、「トランプが私たちを惨めにした」と言った。10代の娘2人と歩いていた女性は、ある会話を耳にした途端、その会話に割り込んで、「みんなして私たちをいじめている」と言った。おそらくトランプやイランの現状に関する会話だったのだろう。相手になった男性が「おれたちは戦争を経験した。こんなの何でもないさ」と答えると、女性は「あなたにはそうでしょう。でも私は社会の発展を望んでいるの。いつまで戦争を基準にしなければならないの?」とかみついた。
コーヒーショップで勘定をした時、会計係の男に聞いてみたら、彼は「イランと米国の両方の指導者がよく話し合うべきだ」と言った。彼も姓は名乗らず、モハマド・ホセイン(28)と名だけ教えてくれた。店長がやってきた。彼は名前を明かさず、アリレザと姓しか言わなかった。
「核合意についてなんてここでは誰も話しはしない」とアリレザ。すかさずモハマド・ホセインが「今朝、二人がしていた」と皮肉った。(抄訳)
(Thomas Erdbrink)©2018 The New York Times